(出典 yururito-sengoku.com)

長期間にわたる石山本願寺との戦いに常に陣頭に立っていた身としては、
余人には窺い知れぬ反逆の動機を得る機会も多かったことだと思う。

自身は摂津全域に拠点を構える一大勢力であるし、
本願寺・毛利、そして播磨の反織田勢力と連携すれば
じゅうぶん勝算はあると考えても不思議ではない。

やはり織田信長に対する不信感が一番の動機でしょうな。

ところで、後半の黒田官兵衛が絡んでくる説、かなり興味深いw


1 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 04:42:41 ID:eEZ2VqxT

いったい、村重謀反の真の理由はなんだったのだろうか。

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2 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 04:45:01 ID:ODdO751l

松永みたいなもん


3 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 05:53:46 ID:4R3L4IiY

荒木村重の配下の一部が石山本願寺攻めの時に
信長の命令に逆らって食料物資を高値に釣られて売ってしまった事が発覚し
村重が弁解のために信長の所へ行く所を家臣達が押しとどめて
「執念深い信長様は絶対に貴方様を許さない」と説得されて
信長に弁解する機会を逸した時点から自暴自棄になったとされてるよね。


6 堀田道空 :2006/06/30(金) 12:30:41 ID:HXFA/hp/

高値に釣られて売ったとしても、その情報は信長の耳に入っててもおかしくないよね?
信長は村重謀反に『言いたいことがあるならなんでも言いなさい』
と使者までたてて説得しているのに(つまり信長にもさっぱりわからない謀反だった)
親友の黒田までぶち込むほど覚悟はできてたんだからよほどのことかも…


7 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 13:20:50 ID:4R3L4IiY

この謀叛の前後にも、たいした理由もなく
佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝ら重臣を唐突に追放したり
美濃攻めの頃から信長は平気で嘘を吐いたり、調略に応じた武将を意味無く殺してきたので
荒木村重が信長の人間性を信じられなくなってた事が、やはり大きいと思う。


8 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 14:40:43 ID:dKTx3H7+

キムジョンイルとかヒトラーとかが「怒ってないから正直においでなさいな」って
言ってきても信じる人間は少ないだろ
殺される覚悟で出向くか、反乱を起こすしかないと思う


11 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 19:32:44 ID:CP9obOzo

村重謀反の真の理由は
松永といっしょで「本願寺が勝つと思ったから」
じゃないかな。単純に。


12 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 20:01:31 ID:NWYF5afx

天正二年、摂津伊丹城を攻略、村重は伊丹城改め有岡城主になる。
天正三年、越前一向一揆征伐に先鋒として出陣。
天正四年、大坂、尼崎、高槻等に砦を築いて石山本願寺を圧迫。
天正五年、紀伊雑賀党攻略に参加
天正六年、秀吉の中国平定作戦に参加

ここまではめざましい働きを見せ、信長も彼を十分に信頼していたようだ


14 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/06/30(金) 20:44:09 ID:M4dBxHLD

3つの説と史料

1、石山本願寺への兵糧横流し 『陰徳太平記』
村重は中国戦線におり、石山包囲を受け持っていたのは寄騎の中川瀬兵衛である。瀬兵衛、もしくは瀬兵衛の部下が、石山城内(境内)に兵糧を横流ししたことが発覚し、謀叛に至ったというもの。

2、小姓からの侮辱 『当代記』
大意は長谷川というものに二階から小便をかけられ、村重はこのことを遺恨に思っていたということ。この長谷川とは、長谷川秀一ではないかと思う。

3、家臣団の突き上げ 『フロイス日本史』
概要は、信長から与えられた土地がいつか取り上げられると心配し、また戦に駆り出されず平穏な生活を望んでいた家臣団が、村重を信長から引き離させ、石山本願寺および毛利家と同盟を結び、謀叛に至ったというもの。


18 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/03(月) 00:06:58 ID:AeebkJ5u

相次ぐ重臣の処罰で精神的に追い詰められてたんだろうね。
そのため些細な事で謀反を起こしてしまった。

道糞と名乗ったあたり、よほど後悔していたのだろう。


19 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/03(月) 20:50:00 ID:QX9WlrM7

荒木がそむいた時期には、林秀貞も佐久間信盛も健在。
処罰された重臣って誰?


46 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/22(土) 16:44:09 ID:MbHiLTt1

>>19
そもそも意味不明な村重謀反があったからこそ、信長的に裏切りそうな可能性のある
佐久間達の粛清がおこったと見るべきじゃない?


47 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/22(土) 18:11:39 ID:s03T5eIQ

>>46
佐久間が裏切るてあんた、佐久間は隠れた忠臣だよ
林や安藤はともかくな


48 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/24(月) 13:16:07 ID:NSd0pcp4

>>46
信忠に権力譲渡する時のために、重臣の世代交代を考えた場合に外す筆頭になった。
本願寺攻めの総司令官でありながら、村重の謀反すら処理できなかったことが決定打。
秀吉ですらいずれその候補になるが、秀吉は信長の4男を養子に迎えることで先手を打っている。
このあたりの抜け目の無さはサスガ。



20 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 07:19:21 ID:Yf6erXFv

ストレスがたまりすぎてたから。
現代のリーマンと一緒。


23 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 00:52:39 ID:8BVk4Ezd

謀反の疑い(本願寺に内通)そのものが信長の捏造で、中川清秀(本願寺に米を売ったとされる本人)が
信長の意を受けて村重を謀反に踏み切らせた、という説もあるね。
なぜなら、清秀はすぐに信長に降伏。もう村重は戻るにもどれない・・・。


24 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 14:54:44 ID:kvBm6CIQ

>>23
清秀が村重に謀反をけしかけ、すぐさま信長に村重討伐の先陣を願い出た。
村重を倒せば、恩賞として摂津1国をもらえるという皮算用。
清秀の腹黒さは秀吉も信用していなかった。


25 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 23:49:38 ID:NYBBEU3E

それじゃぁ、村重があまりにもアホじゃないか・・・


27 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 12:56:33 ID:ViXZqYNr

>>25
当時の反織田勢力は
毛利+武田+朝廷+スペイン
ポルトガルはスペインの属国となっており
スペインが毛利に付こうとしていることは村重も承知していた。
織田がここまで大きくなったのは、ポルトガルを通じての硝石だから、
そのルートが閉ざされるともはや織田もこれまで・・・・・
という判断だったらしい。


30 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 01:53:09 ID:YIHSngnJ

村重謀反の報に驚いた信長は、早速明智光秀・松井友閑等を有岡城へやり、謀反の理由を問いただした。
ところが彼は「特別恨みは無いが、戻るつもりもない」という。

再び秀吉が出かけて行き、重ねて説得したが結果は同じだった。


31 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 01:53:42 ID:YIHSngnJ

黒田如水は村重を恨んでいたんでしょうか。


55 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:48:50 ID:B3IflSN/

>>31 黒田如水は村重を恨んでいたんでしょうか。

黒田官兵衛は荒木村重に命を助けられたと深く感謝し、黒田家は村重への恩返しとして荒木村重一族を黒田家臣にしたと考えられる。

福岡藩士の貝原益軒(寛永七年(1630)生、正徳四年(1714)没)が藩命によって寛文十一年(1671)から貞享四年(1687)までかかって書いた『黒田家譜』の本文は、「小寺政職は官兵衛を荒木村重に殺害させるつもりで有岡城に行かせた」と読める書き方をしている。
もしそうであれば、荒木村重によって有岡城に幽閉されただけの官兵衛は本来小寺政職に殺害されるところを村重に命を助けられたと深く感謝する理由が生ずる。

黒田藩内(福岡藩と秋月藩)にいた荒木村重一族は7家ある(荒木村重の子孫5家と荒木村重の従兄弟の荒木志摩守元清の子孫2家)。


35 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 09:31:56 ID:OfKWSoQ1

何か、この時期は旧三好系の武将が謀反起こしているな。

別所・・・三好家臣
荒木・・・三好家臣池田氏の家臣
松永・・・三好家臣

まさか康長か存保あたりが裏で・・・。


37 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 12:50:51 ID:YIHSngnJ

>>35
中々面白い説だと思う。


38 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 14:27:03 ID:DFMWk1go

旧三好もなにも、以前三好が畿内を制覇したことがあるからってだけだろ。
比率でいったら、旧三好で信長に敵対せずに従った武将の方が圧倒的なんだが。
それと、三好といっても一族はかなり分裂していて一枚岩ではない。
特に笑岩って、長慶系とは長く敵対した勢力ではなかったか?


39 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 16:57:47 ID:OfKWSoQ1

>>37
ありがとうございます。

>>38
康長が一番長慶に尽くしたんですが?
長慶と義賢がケンカした時も仲裁に入ったし。
長慶に対立したのは政長・政勝親子くらいで、三好一族は
大内や織田や伊達と比べると基本的にまとまっている方だと思うよ。


40 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 16:19:26 ID:TOfKt/Mw

村重に従って謀反した高山右近や中川清秀は信長に許されているわけですし
村重も頭を丸めて降伏すればよかったのでは。

松永久秀も1回目は許されてるわけだし。


41 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 20:54:18 ID:HOqz1wlt

そもそも兵糧を高値に釣られて売ったくらいでは信長は処罰しないと思う。
北陸前線を戦線離脱した秀吉も許されてる。


42 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 22:02:53 ID:N2M2VY3v

謀反の理由もわからんが単身で城から逃げたのはもっと訳分からん。村重がおとなしく
首を差し出していたらあんな虐殺が行われなかったかもしれんし。(男子は殺されただろうが)
あんな卑怯な振る舞いが信長の怒りを増大させたと思う。



43 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/18(火) 04:56:50 ID:zb2GuJkF

道糞に改名したのは自責の念から?


44 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/18(火) 11:59:49 ID:0B2cl7ua

>>43
らしいね。ただ道糞じゃあんまりだと思った秀吉が道薫に改めさせたけど。


45 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/21(金) 22:12:31 ID:UOcw4u8p

荒木村重は

「日本の秩序は天皇家を頂点でなければやっていけないのだ」
とする考えの人物だったと考えると 辻褄が合うと思う。

謀反の時期については秀吉の中国攻めの前で
毛利を倒せば織田家の天下取りは時間の問題。

信長の将軍家に対する扱い


天皇家という存在に対しての考え方


村重の出世からして当時の教養人であろうと考えられ価値観は
天皇や将軍を尊重するタイプだったからこそ
信長から視ると 統治者として利用価値があるのだから登用された


村重はこのままでは日本はどうなってしまうのかと考えたということだと思われる


49 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/28(金) 17:56:16 ID:XmsMv43/

村重謀反の原因となった張本人の中川清秀が信長に降り、続いて謀反を進言した高山重友も降りてしまった。
このときの村重の気持ちはどうだっただろう。


50 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/29(土) 14:39:28 ID:Piigj+So

>>49
村重・村次「ほなアホな!」



54 名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 05:13:45 ID:xiQSZvL4

信長は許そうとしてたのに、村重が余計な事するから・・・


56 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:50:28 ID:B3IflSN/

第1に福岡藩士荒木弥助村光(村満)家。
村重嫡子村次の子(又は岩佐又兵衛の子)、荒木弥助村光(村満)は、『吉田家伝録』によれば寛永二十年(1643)2代福岡藩主黒田忠之(黒田長政の長男)に四百石で仕え、
後に福岡藩を去って二十余年江戸にいたが、荒木村光は寛文十一年(1671)3代福岡藩主黒田光之(黒田忠之の長男)に再び五百石で仕えた。
(『荒木村重研究序説』瓦田昇、海鳥社、1998年、p378)
系譜に荒木弥助村光(村満)の妻は堺の産、弟は堺住吉社家と書いてあるので、荒木弥助村光(村満)は堺で育った可能性が高く、
もしそうであれば、荒木弥助村光(村満)は村次の嫡子であり、村重が堺に残した家屋敷を嫡子村次が相続し、さらに村次の嫡子である荒木弥助村光(村満)が相続したのではないか?
もし荒木弥助村光(村満)家が荒木村重宗家となるのであれば、黒田家は官兵衛幽閉の65年後に、荒木村重宗家を家臣にする事で荒木村重に対する恩を返したのではないか?



57 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:51:19 ID:B3IflSN/

第2に福岡藩士、後秋月藩家老田代半七(下記)家。
田代家譜によれば、村重の娘(幼名おくま)が江戸にいるのを聞いて初代福岡藩主黒田長政が田代半七(下記)の妻にするよう命じた。
田代半七(下記)は黒田官兵衛孝高存命中の慶長六年(1601)の福岡藩分限帳では田代半七組で千石。
(『福岡藩分限帳集成』福岡地方史研究会、海鳥社、1999年、p9)
後、秋月藩二千石一番家老。
おくまは正保3年(1646)秋月で没し墓もそこにある。


58 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:52:12 ID:B3IflSN/

第3に秋月藩中老 間半兵衛忠次家。
間氏の系図では、秋月藩士間半兵衛忠次の父は堀八左衛門親秀、母は村重女。
間氏家譜によれば、堀八左衛門親秀は花隈城主として自殺。初室は村重の妹。
間半兵衛忠次は初め千石家臣。寛永中秋月に於いて間氏と改めた。中老五百石。



59 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:53:13 ID:B3IflSN/

第4、5に福岡藩内の僧侶となった村重の子孫の2家。
有岡城から逃げた村重の子女が筑後国草野城主草野家清の客分となった。
村重の一子は竹野村に光伝寺を開基した。
村重のもう一子の正七郎了保も僧となり、福岡藩大老1万6千石黒田三左衛門(有岡城の牢内で苦しむ官兵衛を懇ろにあしらった加藤又左衛門の子国松)に招かれ下座郡下八重津に荒木庵(こうぼくあん)を開いた。
正七郎了保嫡子浄念和尚が長田村町に移転して水城山正福寺を開いた。
(『村誌ひなしろ』平成11年、p265-268)



60 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:56:50 ID:B3IflSN/

第6に荒木十左衛門元満と玄孫の荒木善左衛門元忠。
荒木志摩守元清の四男荒木十左衛門元満は、関白豊臣秀次に連座し遠流となり、豊臣秀吉が没した後に初代福岡藩主黒田長政の家臣となった。
父黒田官兵衛孝高存命中の慶長六年(1601)の福岡藩分限帳では荒木村重娘婿の田代半七(下記)組で千五百石だった。
( 『荒木村重研究序説』瓦田昇、海鳥社、一九九八年、三七七頁。『福岡藩分限帳集成』福岡地方史研究会、海鳥社、一九九九年、九頁)
荒木十左衛門元満は、2代福岡藩主黒田忠之(黒田長政の長男)に荒木元清の荒木流馬術を教えた。
黒田忠之の馬術が徳川家康の目にとまった事から元和元年(1615)徳川二代将軍秀忠に召され幕府旗本千五百石になった。
(『益軒全集巻之五』益軒会編纂、益軒全集刊行部、明治44年、p420。『新訂寛政重修諸家譜第十三』続群書類従完成会、一九九六年、三六四頁)
荒木十左衛門元満玄孫の荒木十左衛門政羽(まさは)(幕府御目付として赤穂城を大石内蔵助から接収した。「細川家御預始末記」によれば、大石内蔵助切腹に際し、
荒木十左衛門政羽が大石を呼び寄せ、自分の意志で、吉良義周が処分された事を伝えた。)の弟の荒木善左衛門元忠(もとただ)が、再び福岡藩士となった。
(『新訂寛政重修諸家譜第十三』続群書類従完成会、一九九六年、三六五頁では松平筑前守家臣とあるが、松平筑前守は廃嫡された黒田綱之(黒田光之の長男)を指すか?)
福岡藩元禄分限帳では「五百石  荒木善左衛門」とある。
(『福岡藩分限帳集成』福岡地方史研究会、海鳥社、一九九九年、p64)


61 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 03:57:46 ID:B3IflSN/

第7に荒木志摩守元清の三男石尾治一(はるかず)。
「慶長五年 (1600)関ヶ原御陣ののち黒田筑前守長政にめしあずけられ、八年(1603)恩免をかうぶり京師に住す。」
(『新訂寛政重修諸家譜第十三』続群書類従完成会、一九九六年、三六六頁)
後述の肥後細川藩士になった荒木村常(村重の孫)の寛政重修諸家譜の記述
「正保元年五月十五日養母が事に坐して細川肥後守光尚にめしあづけられる。」
(『新訂寛政重修諸家譜第十三』続群書類従完成会、一九九六年、三七〇頁)
と比較すると、黒田長政家臣になった可能性がある。
石尾治一(はるかず)家は後に幕府旗本二千二百石となった。


62 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:43:21 ID:B3IflSN/

『黒田家譜』の大意。(『益軒全集巻之五』益軒会編纂、益軒全集刊行部、明治44年、p49-51)
毛利家のすすめで将軍足利義昭が荒木村重に味方を頼み、村重は織田信長に叛いた。
信長公は家臣を遣わして諭させたが同心しなかった。
荒木村重が御着城主小寺加賀守政職へ使いを遣わし、元の如く毛利家へ属するよう勧め、
小寺政職はもとより荒木と仲間なので志を変えて再び毛利家に従った。


63 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:45:17 ID:B3IflSN/

小寺政職家臣の小寺(後に黒田に改姓)官兵衛孝高は、小寺政職を諌めて言った。
「我が子(松寿、後の初代福岡藩主黒田長政)を織田信長に人質に出して、
子を捨てるのを不憫に思うからこのように言うのではありません。
信長は最終的に天下の主となるべき人です。
その上、一旦信長に属したのに約束を違えて毛利家に属する事は不義の至りです。
毛利家へ属してはなりません。」


64 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:47:31 ID:B3IflSN/

しばしば諌めたが小寺政職は同意せず、あまつさえ、小寺政職の家老重臣達が一同に官兵衛を誅そうとしている、という陰謀の噂が聞こえて来たので、
官兵衛は密かに姫路に行き、この話を父小寺職隆にした。
父職隆は家老を呼び集めてその話を聞かせた。
家老達は「信長公に味方なさって下さい、と諌めて小寺政職殿が同意しなかった上は、小寺政職殿を初め御着の者達は必ず官兵衛殿を敵とします。
もう一度御着に行くのは危険です。
この城に引き蘢り、仮病を使って御着へ使いを出し、家老達をあしらって、禍いを逃れて下さい。
もしいよいよ攻めて来たら、寄せ手を残らず打ち取り、御着へ押し寄せ攻め滅ぼす覚悟があります。」と口をそろえて言った。


65 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:49:29 ID:B3IflSN/

官兵衛は「はっきりした証拠もないのにこの城に立て籠れば小寺政職殿に対して謀反人となる。
病気と称せば必ず仮病と思われるに違いない。小寺政職殿に叛き合戦に及ぶ事は不義の至りである。
当家の運が尽きなければ我が身に災難はないだろう。
もし小寺政職殿に疑われ打たれても、我が不義ではない。運命の尽きる所であるので、嘆くべき道理はない。
もとより武門に生まれた以上、義が問われる場合には命を惜しむべきではない。」と述べた。


66 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:51:11 ID:B3IflSN/

父職隆も「官兵衛の覚悟はもっともだ。一筋に信長公を主君と仰ぎ、又小寺殿を旗頭と頼む上はいよいよ信長公に二心を持たず、又小寺殿に背かないのが只今当然の義理である。
このように忠義を尽くしても、もし道理に合わない事によって殺害されるのなら我が家の滅亡は是即ち天命の至る所と思うべきである。
早速御着に行っていつもの様に小寺殿並びに諸臣の相手をして、出来る限り難を逃れるべきだ。
もしその難を逃れ難ければ、その時は切腹すべきである。」と仰ったので、官兵衛は畏まって「承りました。」と言って出かけたが、父子恩愛の別れであり、是限りとなるだろう、と互いに涙ぐんだ。


67 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:53:20 ID:B3IflSN/

人々は、官兵衛を討とうという謀事が漏れ聞こえてきたならば、官兵衛は姫路の城に立て籠るはずだと思っていた所、官兵衛は下人をわずかに連れて御着へ行って変わりない様子だったので、皆安堵した。
御着より姫路に密かに見張りを入れていたが、父職隆の計略によって姫路で能の催しを開いたので、人々の疑いは消えた。


68 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:55:05 ID:B3IflSN/

官兵衛は再小寺政職を諌めたが、聞ききいれなかった。
いよいよ毛利家に味方し、信長に背くという決議を一同に決した。
官兵衛は違背の顔色を見せず変わりない様子だったが、息子松寿を信長に人質に出しているので、内心は必ず信長に味方するはずだけれども、
官兵衛を誅すれば父職隆は必ず姫路に籠城するはずだ、父職隆を攻める事は容易ならない大事に成るはずだ、という理由で、官兵衛を殺害しなかった。


69 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/23(土) 15:56:43 ID:B3IflSN/

小寺政職が官兵衛に言うには「私はこのたび信長に叛き、毛利に属そうと思うが、元来私達は荒木と仲間であり、荒木がにわかに志を変えて私にすすめたからだ。
荒木が元の様に再び信長へ属せば、私も信長へ属そう。
貴殿はこれから荒木のもとに行って、何とかして荒木を諌めて信長方へ引き入れて下され。」
と言ったので、官兵衛は、荒木の心の底は計り難くこの事には何かあるのだろうか、と思われたが、信長公への忠節なので断りはせず、
十月下旬伊丹に行き、町より城内へ使いを遣わし、この話を伝えると、荒木は官兵衛を城内へ招き入れ、
力のある者を多く隠し置いて、押さえて生け捕りにして、そのまま城内の牢獄に監禁した。



70 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/25(月) 20:34:06 ID:3SWBhLva

『黒田家譜』は、そのまま読むと
「小寺政職と家老一同は官兵衛を殺害する気であったが、姫路の城の父職隆を攻める事は容易でなかったので官兵衛を御着城で殺害できなかった。
そこで小寺政職は一計を案じて荒木村重に官兵衛を殺害するよう依頼して、官兵衛を有岡城に行かせた」と解釈できる。
『黒田家譜』が史実をそのまま正しく伝えているとは考えにくいが、福岡藩の藩命で編纂された歴史書であり、1670年頃の黒田家の考え方が反映された歴史の記述である事には違いない。



71 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/25(月) 20:34:57 ID:3SWBhLva

官兵衛は、荒木一族滅亡後御着城を出奔して信長の許しを得られず備後の鞆で天正十年没した小寺政職の男子加賀守氏職を迎えて懇ろに養育した。
その子孫は福岡藩士となり、福岡藩寛文分限帳では小寺政職の曾孫の小寺忠三郎貞職は二百石であった。
(『福岡藩分限帳集成』福岡地方史研究会、海鳥社、1999年、p43)
『黒田家譜』の記述がこの当時黒田家臣になっていた旧主君の小寺家に遠慮があった可能性は否定できない。


72 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/25(月) 20:36:03 ID:3SWBhLva

荒木村重は謀反の翻意を説得に来た他の織田方の武将(松井友閑、明智光秀、万見仙千代)を皆そのまま帰しており、官兵衛だけ幽閉しなければならない積極的な理由はない。
敵の幽閉は籠城戦では貴重な食料の浪費となり、捕虜交換等の明確な理由がなければ本来避けるべき方法である。
そもそも官兵衛は荒木村重が同心を依頼している小寺政職の家臣なので、小寺政職の許可又は依頼がなければ官兵衛の幽閉、殺害はできないはずである。
小寺政職の許可又は依頼が必ずあったはずである。


73 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/25(月) 20:36:54 ID:3SWBhLva

荒木村重は官兵衛の殺害の依頼を受けて、同心を依頼している小寺政職の依頼である以上、官兵衛を有岡城からそのまま帰す事はできず、しかし官兵衛殺害は情において忍びず、生かすつもりで幽閉した、と解釈できる。
実際、村重は最後まで官兵衛殺害の命令は出していない。
小寺政職には、官兵衛を幽閉して徐々に衰弱死させていくつもりだ、と言えば面目が立つ。
司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』は大筋がこの解釈に依っている。
もしそうであれば、官兵衛は本来小寺政職に殺害されるところを村重に命を助けられたと深く感謝する理由が生ずる。



74 名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/25(月) 20:39:06 ID:3SWBhLva

もし荒木村重が官兵衛を幽閉せず、そのまま城から出していれば、多分官兵衛は後をつけてきた小寺政職の手の者によって暗殺されたのではないか?
更に述べれば、村重はわざと牢屋の警戒を緩めていたのではないか?
官兵衛の家臣が密かに牢屋内の官兵衛に会える事がそもそも考えにくい。
村重は全て承知していたのではないか?
牢屋内の官兵衛の置かれた厳しい状況については、
村重はひょっとすると有岡城落城後に救出された官兵衛がもし元気であれば信長に謀反人と疑われるであろう事まで配慮していたのかもしれない。
(以上の55から今回までの書き込みは「2006.11.12荒木村重研究会資料」からの引用です)





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