(出典 s-yoshida7.my.coocan.jp)

宇治・瀬田の会戦で朝廷軍を壊滅させ、十数万の軍兵で京都に乱入した幕府軍。

内裏(皇居)への総攻撃は当然差し控えたのだろうが、
一部の軍勢が暴走しただけでもあっけなく御所炎上、後鳥羽院以下ことごとく…
の可能性はあったと思う。

それほどの大軍の都での行動を制御しえた北条泰時の統率力は驚嘆に値するな…

承久の乱(じょうきゅうらん)は、鎌倉時代承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初朝廷と武家政権間で起きた武力による争いであり、朝廷側敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏に
39キロバイト (6,544 語) - 2019年6月15日 (土) 04:51


1 日本@名無史さん :2015/08/10(月) 11:31:54.96 .net

御家人は、従っただろうし、義時の権威を頼朝を完全に超えたのではないだろうか?

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2 日本@名無史さん :2015/08/22(土) 18:36:01.87 .net

朝廷を滅ぼすというのは、後鳥羽院たちを配流して今上を退位させるだけでなく、
次の帝を即位させず、廷臣たちを都から駆逐してしまうということか?
だが、そんなことをしても、神器を持って都を脱出した廷臣が西国に逃れて
誰か皇子を擁立して即位させるのではないか?


9 日本@名無史さん :2015/08/22(土) 23:25:10.53 .net

>>2
三種の神器を破壊して天皇家を断絶させる


5 日本@名無史さん :2015/08/22(土) 21:48:59.13 .net

>そんなことをしても、神器を持って都を脱出した廷臣が西国に逃れて
誰か皇子を擁立して即位させるのではないか?

いやいや、自体はもっと深刻w
だって幕府は、仲恭天皇のところから一方的に神器を取り上げて茂仁王のところに
持ってこさせているんだから。この行為を正当化するどのような詔勅、宣命もない。
ただ義時の意思のみによって行われた。
ぶっちゃけ神器を接収して鎌倉に持ってくることすら可能。


3 日本@名無史さん :2015/08/22(土) 18:42:50.01 .net

そんなことしたら「俺たちもトップを倒していいんだ!」と下剋上の嵐だろ


4 日本@名無史さん :2015/08/22(土) 21:38:04.67 .net

義満が天皇になろうとしたのと大差ないと思う。
義時だって桓武天皇の男系の子孫だし。


10 日本@名無史さん :2015/08/23(日) 16:19:31.31 .net

そんな事したら西国武士団に、北条氏打倒させる絶好の口実を与える事となる
義時はそんな馬鹿じゃない


13 日本@名無史さん :2015/08/23(日) 20:51:21.15 .net

>>10
鎌倉じゃ毎度毎度、御家人のクーデターが起こってたしな
義時の行動の正当性に疑問符が付いたら、幕府勢はたちまち分裂するわ


11 日本@名無史さん :2015/08/23(日) 19:45:59.85 .net

承久の乱の頃、西国武士と東国武士の戦闘力の差は大きかった。
武内宿禰の再来、義時天皇を崇めたてまつって終わり。
ちなみに住吉神社神代記によれば応神天皇は神功皇后に竹内宿禰が通じて生まれた子。


12 日本@名無史さん :2015/08/23(日) 20:45:21.24 .net

そういう嘘はどこから仕入れてくるんだ?


14 日本@名無史さん :2015/08/23(日) 23:35:00.34 .net

当時の有力御家人なんて三浦くらいで
他は北条の犬みたいな御家人しか残ってない


17 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 15:16:19.25 .net

>>14
安達もだな
後にはやられたけど


15 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 14:21:46.19 .net

三浦と言っても義村は義時の忠実なパートナーじゃんw
義時の方に気をとられていたら後ろから義村が、とかいうのが定番だぞw

これ、全てが終わった今だからわかるけど、同時代の人たちは2人がつるんでる事に気づいてなかったのかな?


16 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 14:55:35.48 .net

鎌倉は朝廷に公認されることで存在が保証されていたわけだから
根拠となる朝廷を滅ぼしたら秩序の空白期間が出来る

その間に各地で新皇が乱立して戦国時代にでもなったんじゃね


26 日本@名無史さん :2015/08/25(火) 16:20:18.79 .net

>>16
各地に新皇が乱立

いいねえそれw。日本史も興味豊かな歴史になってたことだろう。
はっきり言ってローマ帝国だって5人ぐらい皇帝が並び立ったこともあったし、
日本だってそんな歴史が展開したとしても全く驚かないw


18 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 15:20:09.21 .net

頼朝正室の北条政子がいなかったら、負けていたと思うよ
政子の下には結集するけど、
御家人の筆頭北条義時の下には結集しないだろう


27 日本@名無史さん :2015/08/25(火) 16:34:09.76 .net

>>18
さあ。どうかな。
当時の板東の氏族意識はやっぱり男系を中心とした血族を中心としてるんじゃないかな。
政子だって、あくまで平政子だからね。本質的に北条一門の人なんじゃないかな。
倒幕の詔勅だって義時が相手だし、承久の乱は本質的に上皇が北条一門を討とうとして、
返り討ちにあったってことだろう。


19 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 15:53:38.73 .net

政子の存在は大きいな
旗揚げ前からの頼朝の嫁だから、彼女の存在そのものが頼朝に近いんだよな。
しかも根っからの坂東の女だから御家人と同根だし。


20 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 19:26:31.02 .net

後鳥羽院系の皇統断絶、新天皇も擁立せず三種の神器を鎌倉に接収とか過激な事やれば
延暦寺・興福寺とかの寺社勢力が一斉に反乱起こすよ
似たような状況を強いてあげれば清盛の福原遷都だと思うが
あの時もそれまで平氏と仲の良かった延暦寺との関係が悪化して
それが平氏政権崩壊の一因になってる
公家や西国武士団が誰か天皇家の縁者を新天皇に擁立して結局朝廷が復活するだけと思うね
つまり実際に幕府が朝廷に対して取った処置は概ね妥当で、あれが幕府の力の限界だった


21 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 19:37:16.85 .net

三種の神器が絡むと、三河に陣を張って足利氏をはじめてとした源氏や安達氏は、天皇方に付くだろう
三河を突破出来るわけない


22 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 20:24:23.29 .net

足利と安達が手を結んで敵対するなら、北条にとってはやっかいだな
いくさもゆるくないよ
ひょっとして負けるんじゃないの


25 日本@名無史さん :2015/08/24(月) 23:55:20.90 .net

朝廷の中にも西園寺公経など鎌倉支持の公家もいたし、北条氏と親戚関係の
公家もいた。鎌倉方は朝廷のすべてと敵対していたわけではない。
また、摂関家出身の九条頼経を主君としていただいていた。朝廷の持つ価値の
すべてを否定していたわけではない。
朝廷そのものを打倒するという発想はなかったのではないか?


55 日本@名無史さん :2015/09/02(水) 10:00:33.00 .net

御家人が同意できるのは上皇配流まで。朝廷廃止まではついていけない。
そこまで暴走する北条は御家人からみれば王莽や童卓と映る。南北朝時代と戦国時代が
同時に起こるとんでもないカオスになるだろう。


56 活け神アキラ :2015/09/07(月) 13:27:55.80 .net

◆まず中学校レベルの基礎知識を思い出しましょう。鎌倉期の封建社会は鎌倉殿と武士たちの
御恩と奉公の関係で成り立っている。鎌倉殿に所領安堵を受けるために主従関係を結び、
鎌倉殿の家人を「御家人」と呼ぶ。九条頼経と御家人たちは主従関係にある。
得宗家と御家人は主従関係にはない。ここまではわかりますよね。
宮騒動(1146年)宝治合戦(1147年)を経て、北条氏の幕府内の権力が
固まってきますが、北条一門内での得宗家の優位性が確立できず、
摂家将軍を廃した後は皇子を鎌倉殿に迎えます。三浦氏を討滅した後でも、
得宗家は他の御家人たちとは同輩・横の関係であり、これを縦の関係、つまり主従関係にまで
変えるのはまだ政治力不足であったわけです。

ーーー(このあとも活け神解説は続きます。)ーーー


57 活け神アキラ :2015/09/07(月) 13:37:05.40 .net

ーーーどうして、北条氏は鎌倉殿になれなかったのですか?---

◆御家人たちの身分意識の中では、自分たちの主君とは京都からやってくる軍事貴族で
なければならないのです。戦国時代になると少し事情が変わりますが
鎌倉時代にはまだ平安時代の身分観が残っていたと考えられます。
関東の大豪族たちの主君には源氏もしくはそれと同等以上の家柄でないと彼らは心服できません。
また、4代以降 鎌倉殿は名目上の存在となり、
実力ある者が自分たちの上に来て独裁者になることを忌避したのもあるでしょう。
いずれにせよ、得宗家が自分たちの主君にあるというのはちょっと考えられないことです。
 この中世の身分意識は、朝廷(天皇)との血統的な距離を基準にしています。
摂家将軍・皇族将軍はもちろん、先祖の功徳と自らの手腕で鎌倉殿に就いた源頼朝も
例外ではありません。北条氏はこの貴種のハードルを越えられなかった、
と結論付けてよいでしょうね。


58 活け神アキラ :2015/09/07(月) 13:47:27.72 .net

――――承久の乱のときに朝廷をつぶせばよかったのでは?――――

◆いい質問ですねえ。日本の身分意識は全て天皇に帰着しますので、こことの関係を
上手く清算できれば、得宗家は東国武士たちの主君になれたかもしれません。
結果論から行くと朝廷をつぶせなかった。そもそも承久の乱と言うのは
後鳥羽上皇周辺の貴族たちが中心で、五摂家や西園寺などの有力貴族・寺社勢力は
これに反対でした。動員された兵力も畿内を中心とする西国御家人で朝廷と幕府の一部不満分子の
決起に留まり、朝廷全体の総力を挙げての討幕戦争ではなかったんですね。
つまり公武の全面戦争・総力戦ではなかったために、北条氏は朝廷勢力の解体が図れませんでした。
国衙領は依然朝廷の支配地であり、一旦没収された長講堂領(上皇領)も返還されています。
得宗専制が確立する霜月騒動以前の鎌倉幕府は有力御家人による合議制で運営され、
北条氏の覇権が完全とは言い切れません。こんな状況で北条氏が朝廷をつぶすなどというのは
難しかったと思われます。
 


60 日本@名無史さん :2015/09/16(水) 12:01:55.76 .net

終了はまだ早い。朝廷はすでに滅んでいたんだよ。

69 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 23:44:10.41
承久の乱が起きる前までの北条家なら確かにそうだろうけど、
承久の乱で 【朝廷を事実上滅ぼした】ことで 北条義時の権威は頼朝に匹敵するくらい絶大なものになった。
その義時や後継者が高い官位を望んでも他の御家人は別に反発なんてしなかったと思うよ。
高い官位なんて欲しくなかったんだろ。


158 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 18:14:40.56
承久の乱で誰がどう考えても【北条義時が朝廷を滅ぼしてしまった】から
以後形式はともかく実質は得宗家(義時の後継者)が天下人になってしまった。
義時はそこまで考えてなかったろうね。


62 日本@名無史さん :2015/09/16(水) 14:11:46.68 .net

予想通りのレスだな、この童貞野郎。これでも読みやがれ、えいっ!

714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712
承久の乱の過小評価だ、あんたは。
承久の乱は【朝廷が武力で滅ぼされた】というのが客観的事象だ。
武力で圧倒されて上皇や天皇が全員配流されたというのは朝廷の滅亡と評価するしかない事象だ。

781 :日本@名無史さん:2014/10/17(金) 11:37:17.92
組織が一丸となってなければ倒されたことにならないとか理解できない理屈だな。
治天の君という朝廷の最高責任者が反対者を拘束してまで行った戦いの結果は
組織に帰属すると考えるのが常識だろ。
だからこそ反対者も居たわけで。
【朝廷が実質的に滅んだ】ことを認めたくないからそんな理解不能な理屈を
展開しているのか?


714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
>>712


65 日本@名無史さん :2015/09/24(木) 22:47:16.83 .net

朝廷は滅んでいない


67 日本@名無史さん :2015/11/23(月) 01:54:07.09 .net

承久の乱も、農業団体の反乱みたいなもんだからな。
自分の農地の権利が確認できれば、あとはどうでもよかったんだろ。


71 日本@名無史さん :2018/05/08(火) 00:01:00.45 .net

織田信長なんか小物
北条義時こそ大魔王


73 日本@名無史さん :2018/05/08(火) 00:14:48.75 .net

ただ北条一族というのは徳川一族や足利一族や藤原一族より異質すぎる。
やはり承久の乱が影響してるのかな


74 日本@名無史さん :2018/05/08(火) 01:11:57.40 .net

いいえ


81 日本@名無史さん :2019/04/08(月) 16:34:29.62 .net

むしろ欧米の日本史好きからは、
徳川家康が豊臣を滅ぼした後に大軍で京都に攻め込んで、天皇を滅ぼすor
家康自身が天皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか?ということに
興味を惹かれるらしい


82 それを言い換えると、こうなる :2019/04/08(月) 17:22:18.69 .net

ナポレオンがヨーロッパを制圧した後に大軍でローマに攻め込んで、教皇を滅ぼすor
ナポレオン自身が教皇になることはできたんじゃないか?なぜしなかったのか?


83 日本@名無史さん :2019/04/08(月) 20:53:25.75 .net

ローマ教皇は宗教的権威だろ
日本で言えば出雲大社神主みたいなものだ

日本国王(倭国王)である天皇とは性格が違う


84 日本@名無史さん :2019/04/08(月) 20:55:44.03 .net

関東地方を制した平将門が新皇と名乗った

日本史ではイレギュラーなことだが、世界史ではこっちのほうが自然なのだろう

天皇観は日本独特なもので面白いと思うね


85 日本@名無史さん :2019/04/15(月) 20:53:37.14 .net

北条義時が平将門を真似て天皇(新皇)になったら、
三浦足利千葉宇都宮など有力御家人が従わないだろう


86 日本@名無史さん :2019/04/15(月) 23:20:42.00 .net

北条は関東御家人の中でも家柄が低いから鎌倉殿になれなかった。
鎌倉殿になれなかったからついぞ将軍になれなかった。
将軍にスラなれない北条が皇位につくなど無理

大体 「朝廷を滅ぼす」の意味がワカラン。北条オタの>1は承久の乱を勘違いしている。
承久の乱は後鳥羽一派のフライングであって、朝廷総体は動かなかった。だから、御家人は義時に味方した。
貴族・寺社・非御家人全部に対する殲滅戦に付き合う御家人などいない。御家人はつねに損得勘定で動く。
承久の乱は北条についたほうが自分らに利益があると判断しただけ。


87 日本@名無史さん :2019/04/20(土) 21:09:44.96 .net

>>86
例え朝廷総意の北条義時追討であっても承久の乱時点では
もう東国御家人は朝廷側には付かないよ
和田合戦の勝利で義時の権力が確立する以前に追討すべきだったな




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