(出典 i.ytimg.com)

当時公武合体派だった岩倉具視を面と向かって糾弾して一時失脚に追い込むなど、
幕末は尊攘派公家の代表として、かなり剛毅なイメージだったんだがな…

維新成って太政大臣まで上り詰めて、人生守りに入っちゃったのかな?

ちなみに征韓論。
まずは遣韓して、新政府を旧幕府の正当な後継と認めさせて
あらためて国交を結ぶことが目標だったのよね。たぶん

「征韓」は他でもない、
この時それに反対した者たちの後継者によって達成されたという…

韓論」と呼ばれるものであったが、遣使に反対する者は西郷が間違いなく殺害されると見ており、西郷自身も自身が殺害されれば征討の名分が立つと主張していた。 西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した[要出典]。
18キロバイト (3,012 語) - 2019年8月11日 (日) 10:52


1 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/10/23(日) 16:03:51.58 ID:HvpHk1040.net

征韓論とは、明治新政府に対して外交を拒否してきた朝鮮に対して、武力により開国させようという主張である。
三条実美が明治天皇上奏直前に倒れたことによって、征韓論は実行に移されることなく、幻に終わった。
歴史に「もしも」はないが、三条が普通に天皇に上奏できていれば、歴史は変わったのか?

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2 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/10/23(日) 18:34:06.89 ID:UKXQvUkd0.net

倒れたというより仮病つかって岩倉に押し付けたのが真相じゃね。
あの時期に征韓はさすがに無謀だったろ。台湾みたいな化外の地じゃ
ないんだから。


3 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/10/23(日) 20:42:21.28 ID:HvpHk1040.net

1873年 10月14日 - 15日に開かれた閣議には、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、以下参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、
後藤象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が出席。

採決は同数になる。しかし、西郷が辞任した場合、新政府が混乱することを恐れた議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保、
木戸、大隈、大木は辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。

後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、
意識不明に陥る。

20日には岩倉が太政官職制に基づき太政大臣代理に就任した。22日、西郷・板垣・副島・江藤が岩倉私邸を訪れ派遣決定の上奏を要求するが、岩倉は
「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張した。そして23日、岩倉は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。
明治天皇は岩倉の意見を採用し、西郷派遣は無期延期の幻となった。大久保は事前に宮内卿徳大寺実則に対し、西郷らが明治天皇に直訴しに来ても会わせない
ようにと根回しを行っていた。


4 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/11/04(金) 20:52:57.75 ID:6pGqbGko0.net

征韓論については結論からいえば、実は西郷隆盛は征韓論に大反対していたのが真相であり、
征韓論を平和的に解決するために西郷が朝鮮へ遣韓大使として派遣して欲しいという要請が
受け入れらず下野したというのが明治6年の政変の真相のようである。征韓論ではなく、
遣韓論に敗れて西郷は鹿児島に帰ったのである。天啓愛人を座右の銘とする西郷が、
武力をもって朝鮮に開国をせまることはあり得ない。江戸城を無血開城したように、
西郷でなければ朝鮮を無血開国国交出来なかったであろう。征韓論問題の経緯については、
書物にいろいろ解説があるが、明治新政府は西郷を遣韓するよりは征韓に傾斜していたことは、
明治7年江華島事件を起こしてさっそく武力衝突を起こしていることでも分かる、
下野した西郷はどんな思いで江華島事件の報を聞いたことだろう。この征韓論の延長線上に
あるのが日清日露戦争そして日中戦争を経て太平洋戦争の敗戦である。歴史にifは無いが、
西郷が陸軍元帥として、また明治元勲として明治帝を輔弼して政を摂っていれば日本は
もっと違った発展をしていたと思えてならない。西郷は征韓論を主張して負けたのではなく
征韓論に反対して負けたのである。


5 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/11/06(日) 10:28:34.05 ID:KyiOElN/0.net

西郷は遣韓論が駄目だったら征韓論ってだけで武力反対論者じゃないよ
大政奉還も江戸城無血開城も武力を背景にした外交だし


8 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/12/04(日) 10:58:13.35 ID:wsxlk4Tk0.net

史実の資料なんか見ると、温和だけど度胸はあった人っぽいしな
普通に仮病だったんじゃないの?


9 名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/12/16(金) 00:11:14.43 ID:rOXlrKeo0.net

そもそも西郷は朝鮮に行って何するつもりだったの?
役割的に軍人でもある西郷より外務卿の副島が行くべき案件だったと思うんだが


10 名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/01/10(火) 16:26:59.23 ID:1rg0s0620.net

朝鮮と条約むすぶつもりだったんだろ。ペリーやハリスになるつもりだったんでは?
きほん李朝は徳川幕府と外交関係にあり、朝廷などという外交使節がやってきても
門前払いしてたし日本の使節が「皇」などという文字をつかってることに激怒しこんな
文章受け取れないと突き返してた(皇をつかってよいのは中国皇帝ひとりという政治的立場)。
釜山の日本施設を勝手に「朝廷」が管理しはじめたことにも激怒しており、もう、のっけから
維新政府の対朝鮮外交はつまづきまくりだったのよ。その背景には八戸怪文書があった
ことも知られている。

征韓論はそういった背景から現実の政治論として出てきており、在野の志士がいうような
「かつて三韓すべて皇室に従属していたその三韓を征服すべし」が目的とは必ずしもいえなかった。


14 名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/09/07(木) 03:04:20.00 ID:/VDY1nuC0.net

この人、孝明天皇の時には逆賊みたいに扱われてるのに、
孝明天皇崩御した後すぐ大きな役職に戻ってるのって
やっぱり長州派と画策して、孝明天皇を暗殺したってことになるんだろうか?
孝明天皇と明治天皇って仲悪かったのかな、取り巻きが全く逆の人たちだよね。


16 名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/10/20(金) 01:28:59.48 ID:Zus7BI/a0.net

>>14
薄っすらと戦略を持っていた久坂ですら禁裏に上がることを憚り
鷹司に取次ぐよう懇願したものの拒絶され自決した
維新後巷で言われた伊藤の暗殺説は当時の伊藤の身分と長州を取り巻く状況を考えると無理筋不可能
慶應初年(1866冬)に毒を盛ろうにも長州三条派は八月十八日の政変(63)で京から落ち山口から太宰府
長州派公卿が再活動しだしたのは孝明帝が崩御してから
薩長同盟(1866)まで薩賊会奸と不倶戴天だし同盟後暫くリーダー格の木戸は薩摩に不信感ありあり
岩倉は薩摩派で66年67年初だと長州過激派は禁裏(御所)に有力な伝手がない
また一番重要なことだが第二次長州征討終結(66年10月)直後の数ヶ月間では帝暗殺の計画も工作も出来ない
孝明帝が疱瘡で崩御したというのは正確ではないかもしれないが
少し前には江戸市中及び江戸城でコレラが流行しており何が起こっても不思議ではない
孝明帝は夷人恐怖の攘夷熱で弱り何かの病気(疱瘡含)にかかり崩御したと考えるのが自然
岩倉主犯説だと下級公家岩倉は孝明帝から側近に引き上げて貰っているので恩義はあるも動機がない
そも岩倉使節団でも公家の格好を貫いた尊皇家であり皇室の藩屏たる自負があった
子分の西園寺がその意志を引き継いでいる




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