最後まで里見や佐竹などに手を焼いていた北条と、
小田原の役の戦後処理で一応は関東諸侯を鎮撫した上で入府した徳川とでは
だいぶ状況に差があったんじゃないでしょうかね~
北条氏と徳川氏の支配領域はほぼ同じである
どうして北条氏には天下統一(どころか関東統一も)
できなかったのに
徳川家康にはできたのか?
その差を論じてみよう
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やはり執行部の能力の差か
北条も結構状況厳しくない?
武田とか今川とかとやりあうしかないやん。
…後は北進…する?
>>8
なるほど、家康のときには
北条のときのような包囲網が解消されていた、
ということもあるのかな
>>10
勿論一概には言えない(つまり家康がツイていただけとか北条が時代の敗者だったとかは言えない)けど、
家康は織田という強固な同盟(しかもお互いに裏切りにくいという特殊な同盟)を背景に戦争出来たし、その後関東を手にした時には全力を開発に注ぎ込める時代でもあったし。
逆に北条の場合常に周りが敵で、味方も潜在的に敵に廻る危険性あったわけだし。
開発にリソース割り触れるかどうかについても考えねばならんと思うのだ。
>>8
関東に転封された家康は開墾に励み石高は二百五十万石にも達した
ということは北条時代には土地のポテンシャルを活かせてなかったということだろう
まあ家康のときは国内での戦が収まった後だから単純比較するのは無理があるけど
あと徳川のほうが武闘派だよね
徳川は武田上杉ほどじゃないけど
それなりに強い東国型の軍隊と
能動的な上方の文化と、両方兼備してた
>>12
織田の仲介蹴って武田と戦争したのとかブレーキぶっ壊れてる感ある。
でもそれが結果正解だから歴史ってわからんもんだ。
>>27
平山優の「武田氏滅亡」をKindleで買って
読んでみたのだが
家康はおとなしいとか慎重どころか
破天荒、無鉄砲に近いほどの荒くれ大名だよなw
>>32
徳川家康は果断な面も慎重な面もある人物
昨今は反動のせいか前者だけ強調する人もいるが
あの先生の場合は武田勝頼上げに繋がるからそこを強調しているのかも
・北条が関東に居たときには
徳川が五か国(信濃のみ川中島を除く)115万石で健在
・徳川が関東にきた時には
家康の五か国は織田信雄が没落し
小大名に分割されてしまっていたうえ
三中老が揃いもそろって無能
家康が慎重派だった、ってのは大嘘
先行観念ありきの後世の創作であって
実際には領国拡大の鬼やで
ただ時代の流れを読む力すげーと思う→家康。
信玄を信じ切ってたら裏切られた時にガチで滅亡してたかもしれんし。
信玄に喧嘩売られたとはいえ早めにアンチ武田運動してたのはすげーわ。
むしろ信長が忍耐強い
佐久間に家来の前で大口叩かれた時も我慢
村重に背かれた時も不満や信長に至らぬ点があれば申せと言い
光秀に料理を安土城の堀に棄てられ腐った時も我慢
>>35
信長は言われてるより「性格甘かった説」あるよね
秀吉も本能寺後の脇坂への手紙で
「信長の時代のように甘くはない」といってるくらいだし
要するに信長は反論してもいい上司だった
>>信玄を信じ切ってたら裏切られた時にガチで滅亡してたかもしれん
もうあの時期に信玄坊主を信用してる大名
ひとりもいないよね
違約の数、信長より多いやん
>>36
でも信長は信玄信じていたから…
なお
>>71
信玄は信長領に攻め込む3年前に
感謝の手紙を送って、信長を油断させていた
その間に着々と軍勢を整えて3年後
満を持して西上を開始し、家康を瞬殺した
信玄公とはそういう御仁じゃよ
>>73
おいおい家康は死んでないぞ
その時は
いや、瞬殺とは実際の殺害を意味してるんじゃなくて
殺されるぐらいの甚大な被害、という意味、言葉の綾ですよ
いわばネットスラングに近いです
>>79
圧勝とか完勝とかあるでしょ
まぁいいけどね(笑)
信長はしょっちょう同盟相手や家臣、味方に騙されやすい
>>37
「天下布武」なんて信じ込んで
将軍擁立・機内平定を実践するくらいだから
自分を信じ込む性格だったんだろうね。
難局で敢闘する人たちはこういう性格の人が多い。
苦難の生涯で有名な大久保利通なんかも「篤信の性格」といわれ
信じ込むタチの人だったらしいし。
まぁ、そうじゃないとやってけないわなw
当時の当主が氏政などではなく、たとえば氏綱だったなら
家康に劣らない拡張志向の人だから
天下を。。。と思いたいが、ないなw
家康は目の前で信長・秀吉を見たことが大きいと思う
どんな人間でも時代や環境に拘束される
だから厳密に同じ環境におかねば比較は難しいが
たとえばもし上杉謙信が岐阜あたりにいたら
機内の大小名は一瞬で討伐されてしまったろう、
ということはいえる
謙信が美濃の大名だったら
数年で畿内北陸の大名どもは皆殺しにされ
義輝から管領代に任じられたろう
そして信長は桶狭間で敗死し松平元康は
今川の一武将で終わったろう
さらに「謙信の忠義」というゲームがコーエーから発売され
信長はズル賢いだけのクズ武将で
元康は脇坂程度の武力と評価されたろう
後北条ってつくづく虚名だよなぁ
強襲型の軍隊持ってなかったから
踏ん張りがきかない
そこいくと信玄や謙信は強い
だから言っただろ
家康は東国流の強襲型軍隊と
上方流の戦略性を(どちらも半端ながら)
持ち合わせていた稀有な大名だったんだ
その稀有を理解できないから
君らは戦国の理解が難しくなって
小和田哲男の武将ランキングなぞ読み漁ることになるんだ
>>79
ただ信玄さんのツイてないところは
折角信長裏切って西上して家康攻撃したのに、家康を取り逃し浜松城に籠城される
挙句、朝倉が約束破って撤退して作戦の練り直しを強いられる、
上に病気(もしくは徳川による狙撃)によって死亡し、
とどのつまりは織田という絶対武田滅ぼすマン作って死ぬことになった…
これはマジで不運だと思うんだ…
>>朝倉が約束破って撤退
海上さんの「孫氏の盲点」には
信玄の進撃速度は遅すぎて
朝倉は信玄の西上を約束通りの上洛とは思わず
ただ領地拡大をしているだけ、と勘ぐって
自分らを陽動作戦に利用しているだけ、と判断して
撤退したそうです
つまりもう信玄は信用を失ってたんです
>>96
そう考えると三方ヶ原って割と良くなかったな。
家康を折角倒すチャンスだったのに逃げられるわ
にも関わらず「武田大勝」って印象が強いから信玄何ぼさっとしてるねんって思われるわ、
挙句戦略破綻して信玄も死んじゃうわ…
今まで家康は信長に利用されただけ、と思ってましたが
実は家康の方こそ後方を織田に守られて
全力で武田・今川と抗争することができてたんですね
俺は常に全力を投じて生きていた家康が好きですよ
余力を残しながら残念な生き様を晒した
北条氏の人々は、全てを投じて闘う、という
覇道の家風を持っていなかった
むしろもっとも慎重だったのは彼らだったんだ
古河公方、上杉がいたから無理。
それだけ
古河公方と上杉いなかったら
北条が西日本へ進撃して天下獲れたと思う?
そういう話しをしてるんだけど
>>105
流石にそこまで敵を消さないと天下とれんとかいくらなんでも…
問題は武田・今川と倒せるパワーがあるか…だしなぁ。
>>121
そう考えると20万もの軍勢を
関東に送り込んできた豊臣政権は
やはり尋常じゃないよね
朝鮮出兵も16世紀の人類の戦争のなかで
最大のものだったらしいしね
>>121
1代で考えると難しい
早雲の頃からずっと開墾に励んで「日本一広い平野部」という地の利を活かし
石高を倍増させることが出来ていれば氏康あたりでいけた可能性
相手を完全に滅ぼそうとする「必殺の意志」が
関東には乏しい
信長を中心としたサロンにはそれがあって
家康もその空気に感染していた
なんていうか、無敵の要塞なんかもっちゃいかんのよな。北条しかり秀頼しかり…
まぁ持ってなくても滅ぶ時は滅ぶけど。
治水工事をするだけの余裕が徳川氏にはあった。北条がやろうとしても、佐竹に妨害されそう。ノウハウの問題もあるかもしれない
てか地味に佐竹って困りもんじゃないか…
この辺りの同盟で大抵ゴタつく時はお名前あがってる気がする
もっと条件を同等にするためには
「北条氏の当主が、徳川家康に交替したら
天下を獲れたのか」と考えると早い
おそらく氏康と交替しようが
氏政と交替しようが、同じことはできなかったろう
つまり北条と徳川の差は地理的要因だけじゃなく
やはり家全体の能力差、ということ
北条も結構デカい勢力なのに、
考えてみると情報収集能力が低過ぎないか?
上杉三郎景虎が景勝に勝たないまでも
上野・北信濃・下野・飛騨(宇都宮と佐野・姉小路と江馬を寄騎に)を割譲を受けて存続を許されていたら
かなり違う
>>152
まぁ景勝からすれば北条と繋がり強過ぎる景虎を生かしておいたら最後には殺されるのは俺とかおもってたろうし
じゃ、小田原の役がなくて
そのまま存続を許されてたら
北条の西日本進撃はあったのかな?
とても考えられないよね?
それができたのは家康と徳川軍団あったればこそ
地理的な観点で関東の利を強調するのは超間違い
やはり相当、不利だったと見るべき
後北条と前北条の怠慢から武蔵野の開発が進まなかった
領民のご機嫌を摂りすぎる殿様も実は領民の為にならない
実際問題、北条はどんな戦略練ればよかったのか
北進なんて寒いだけだし…
まず徳川程度の強さの軍隊、
全国的に通用する程度の軍隊が必要
北条の軍隊では上方でもキツかろうて
北条は虚名だよ
実は関東は畿内と同程度に武士団が弱くて
権力の空白地域に近かった
北条氏の伸張は東四国の細川・三好が
畿内で幅を利かしていたのとそうかわらない
鎌倉武士団は最強だったのに
どこから東国武士はナヨナヨになったの?
別になよなよなわけじゃないみたいだよ。
むしろ美意識が高すぎて鉄砲を軽視してた。
最近の研究によると、関東武士団は
個人志向が強くて、集団戦術や戦略を軽視してた。
そして致命的なことは武器の発達に無関心で
鉄砲をあざ笑ってたとのこと。
上方武士団が何千挺もの鉄砲を一斉に放つのを見て
卒倒したそうな。
世間じゃ武田騎馬軍団なんて言われるけど
第一武田の騎馬武者比率は関東勢の半分程度でそれほど多くなかった
武田軍の強みは兵種のバランスの良さにある
むしろ個人戦闘に秀でていたのは戦国の世においてもなお騎馬武者の美学を追い求めていた関東武士
関東武士団は「武勇個人主義者」の集まりで団結に欠けた。
畿内は商業的個人主義だったが
織田信長の弾圧に屈し、統制のとれた存在になった。
北条の徳治主義は連帯を求めることに終止して
強力な統制に至らなかった。
結局、北条が勝てなかったのは要は時代に乗り遅れたから?
>>191
自発性を待たない厳しい統制を「時代」というなら
まさにそのとおりで時代に乗り遅れた、ということ。
信長の家も父親の代までは室町風に
敵対した親戚や同族、同輩を許しまくってる。
これはそれが室町式の様式だったから。
信長の代になるともう逸脱して殺しまくってる。
関東は室町式の行動パターンが多い。
>>徳川家康は果断な面も慎重な面もある人物
でも家康程度の慎重さはどの大名でも持ってるんじゃない?
どちらかというと、国衆から急膨張した
その拡張志向のほうに目がいってしまう
>>221
家康のすげぇところはそのバランス感覚の良さ
信長死んだ時に「信長の盟友だから」といって家督争いに介入するかと思いきや
「まぁそこは織田さんの都合だからね」と突っ込まず、しかし
「でも織田さん今大変じゃん?だから旧武田領は俺が見といてやるわ!」
とちゃっかり領土は増やしてる(上に、織田からはこれをありがたがれてるという)
北条は軍隊弱いからダメだよ
徳川は武田と互角に戦えたから、かなり強いと見ていい
ただ石高とか政治状況の差のみを論じて
大名たちの軍隊の強さを各家同じとみなす
今の論じ方では、実態をつかみきれない
家康は三河の精強な部隊を率いたまま
関東に入部したんだよ?
場所が替わっただけ。
家康以降の関東は、規模の大きな三河なんだよ。
北条の脆弱な関東とはまったく別物なんだ。
徳川と北条、何が明暗を分けたのか…
慢心、環境の違い…
そういや北条の領土拡張って進捗どうだったん?
家康が関東に移封される前の家臣に加え、北条滅亡で浪人となった連中のいいところを家臣に加えたりしたから家臣の能力が爆増した
北条時代に荷物になってた奴らは領地召し上げ追放
>>251
支配層は三河武士だけど
実働部隊の歩兵は旧北条や旧武田なんだろ?
それだと三河武士の強さは失われたってことだな。
徳川家臣団
旧武田家の優れた騎馬兵でもある甲州兵、上州兵、信州兵らを遠州の勇将井伊に赤備えとして引き継がせたものの井伊家の軍役は三河風の長い槍と鉄砲主体の歩兵集団に変化してしまった
これが宝の持ちぐされってやつ
徳川家臣団
旧武田家の優れた騎馬兵でもある甲州兵(騎兵率10%以上15%以下)、信州兵、上州兵(騎兵率20%)らを遠州の勇将井伊に赤備えとして引き継がせたものの井伊家の軍役では三河風の長い槍と鉄砲主体の歩兵集団に変化してしまった
これが宝の持ちぐされってやつ
個人的武技に執着する関東武士は
ついに組織、集団を理解できなかった。
戦国時代の関東って
「もうひとつの畿内」に過ぎないんだよね
甲越から強力な大名が南下してきたんで勘違いしがちだけど
北条がいくら努力して有象無象どもを糾合してみても
それが天下に繋がるとか、ありえん
もう一度言っておくかな
家康以降の関東は「新三河・第2三河」なんだよ
反面、北条は今川と変わらん
関東武士団をいくらこねくり回しても
全国政権は出てこないよ
三川武者が愚直とかって
大久保彦左衛門らが美化しただけ
松平一族の争乱みるになにが忠実だと思う
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