(出典 media.bastillepost.com)

まあ、可能性としてはなくもない、かな…

なんにせよ読みやすい記事だねw


1 ■忍【LV21,ほうおう,9C】第13艦隊◆IpxlQ2BXrcdb :20/12/25(金)19:30:32 ID:???


(略)……

劉備と諸葛亮の「せめぎ合い」

劉備に仕えたとき、諸葛亮は27歳の若さでした。それまで官職に就いたことも、戦場に立ったこともありません。したがって、すぐに集団の
中枢に入れるはずはないのですが、劉備が庇護することで、それを果たしたと思われます。
しかし、いつまでも劉備の庇護に甘んじていたわけではありません。赤壁の戦いの後は、諸葛亮と関わりのある?州の人材が劉備軍団に
加わってきて、次第にその立場が強化されていきます。

最初は劉備の後押しがあったものの、時が経つにつれ、諸葛亮は?州人材を政治的な基盤として、影響力を強めていきました。劉備はそうした
諸葛亮を喜んだかというと、私はそうは思いません。諸葛亮の影響力拡大を受け、劉備は徐々に諸葛亮を警戒し始めたのではないでしょうか。

益州に入ったのち、劉備が法正などの?州以外の人材を重用したのは、諸葛亮に対抗させるためのものととることもできます。劉備の晩年、
二人の「せめぎ合い」は頂点に達しました。
219年に関羽、221年に張飛が非業の死を遂げると、激怒した劉備は、その仇である呉を討つべく出征。ところが、夷陵の戦いで大敗して
しまいました。白帝城に入った劉備は病床に臥し、諸葛亮を呼び寄せます。

この時期には、挙兵以来の家臣である趙雲も諸葛亮に近い立場にあり、後継者である息子の劉禅は暗愚と、劉備には頼るべきものがありませんでした。
だとすれば、強固な勢力をつくった諸葛亮に、劉備は脅威を感じたのではないでしょうか。
劉備は世を去るとき、諸葛亮に「我が子が皇帝としてふさわしくないと思えば、あなたが取って代われ」と告げました。
劉備の置かれた状況を考えると、この言葉は諸葛亮を牽制しようとしたもので、「あなたをあまり信頼していない」という劉備の本音が
吐露されたものと私は受け止めています。そうだとすれば、諸葛亮は大きなショックを受けたに違いありません。
諸葛亮の基本方針は漢の復興であり、その旗印である劉禅に取って代われば、もはや蜀が漢ではなくなります。ですから、劉備からそのような
言葉を投げかけられても、諸葛亮の志が変わるはずはありません。実際、劉備の死後も劉禅を支え続け、5回にわたって北伐を指揮しています。

とはいえ、5回に及んだ北伐も、ついに成功することはありませんでした。強国である魏に挑み続けたことを、不思議に思う人も多いでしょう。
しかし国力差がありながらも北伐をやめなかったのは、それが国是だからです。蜀は漢を再興するために建てた国家だからこそ、北伐をやらざる
を得なかったのです。もっとも、「やらないと滅ぶ」という切迫感のほうが大きかったかもしれません。
小国は戦い続けなければ、大国との国力がどんどん開いてしまいます。現実問題として、諸葛亮は戦うしかなかったのです。
もうひとつ、北伐を続けた理由として、劉邦の前例が考えられます。劉邦は負け続けながらも、長安周辺を押さえることで、最終的に項羽に
勝っています。「長安さえ取ったら、勝つ可能性はある」。諸葛亮は、そう捉えていたのではないでしょうか。

(以下略)

歴史街道 12月24日
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/8201?p=1

◆ニュー速+ 記事情報提供スレ 117◆ !max600
http://uni.open2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1607491679/


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8 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)20:16:23 ID:Jk.rp.L1

>>1の引用に無いけど、
>劉備と諸葛亮は漢再興を求め続けることで、漢を中国における古典的存在とし、
>「漢民族」というアイデンティティーの確立に、大きな役割を果たしました。それが、中国全体に与えた影響は、いうまでもないでしょう。

これは考えさせられたね。
そしてこの確立は2人の実在ではなくて、三国志演義中の2人によってなされた点。
これは半島南部の安羅をわが国で東漢と呼んだ影響もあったと思う。演義と時代が合わなければ当時の漢人居留区だったかもしれんが w
まわが国でも仏教観の平家物語、新興武家と帝公家の最終決戦の太平記、庶民文化の芽となる太閤記など、数々の物語は日本文化を形成する重要な役割を果たした。
そしてこの物語という奴は、国によって他の権利を否定し奪う悪い方にも作用する点も警戒しなければならない。


2 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)19:34:17 ID:JX.yb.L1

三顧の礼


3 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)19:42:25 ID:TP.qy.L7

>私はそうは思いません
いや知らんがな


20 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)15:58:56 ID:KY.ta.L1

>>3
それな


4 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)19:46:06 ID:JA.qy.L1

泣いて馬刺しを喰う


5 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)19:51:37 ID:b5.lc.L1

ワイ横山三国志しか知らんのやが趙雲って挙兵以来の家臣やったんか


6 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)19:52:03 ID:Hz.0e.L7

自己投影乙


7 /)・ω・´)キリッ!◆OQUvCf9K4s :20/12/25(金)20:08:31 ID:ok.bu.L1

普通そうでしょ?


9 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)20:27:09 ID:5q.es.L6

我が子が皇帝として相応しくないときは、あなたがとって変われ
って最大級の信頼じゃんか
脳沸いてんじゃねーの


16 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)03:55:00 ID:rT.fc.L19

>>9
そう思う
むしろ自分の子どもの方がショックを受ける


10 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)20:55:02 ID:g4.63.L1

現状と比較したいなら間違いだ


11 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)22:15:30 ID:zN.bx.L1

吉川英治の三国志を最近読んだけどとにかく孔明推しがキツくてしんどかった。


12 名無しさん@おーぷん :20/12/25(金)22:29:02 ID:58.su.L1

史実では孔明が採用されたのが
劉備の死んだ後じゃなかったっけ?


13 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)00:47:17 ID:FR.tu.L1

長安というか、かつての秦国の領域は
中原から隔離されてるから
このエリアを抑えると有利だよね。


14 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)00:50:16 ID:FR.tu.L1

泣いて馬謖を斬って、敗戦の責任を押し付けたw


15 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)01:19:35 ID:2g.q4.L1

それはちょっと曲解じゃないかなぁと思う。
他の勢力には相応の知能を持った文官が多く、自分のところにはいないから、切望した果て諸葛亮を得たのが実態だから
信じ切ってなかった可能性はあっても、疎んじる事はできないと思う。
中原以南で曹操の人材集めは尋常ではなかった事が知られているほどだから
劉備は人材面で苦労していたのは事実でしょう。


17 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)06:49:05 ID:mb.h1.L13

簡雍「たまには私のことも思い出して下さい」


18 ■忍【LV31,じごくのよろい,EJ】ななしの国からこんにちわ◆ePSYFR8jBw :20/12/26(土)09:13:15 ID:Qg.2p.L31

シャーロッキアンみたいに楽しめば良いよ
どうせフィクションだ


19 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)09:35:17 ID:JJ.ta.L1

劉備は漢儒教社会の代表、孔明は徐福と同じ方術、道士の代表って所だな。
一方は「儀」のホラ吹き、一方は壮大さのホラ吹き。似たもの同志 w
曹操は「実」。孫権は「凡」。後の支那専制秩序は劉備と孫権の特徴でなされた w


21 名無しさん@おーぷん :20/12/26(土)16:12:22 ID:q3.xt.L1

司馬遼太郎や吉川英治を読んで歴史の専門家になった様なつもりで語りだすおっさんと同じ種類の人間だの。




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