(出典 pbs.twimg.com)

殿(しんがり)としての戦いだからなぁ
退却しつつ戦いは進む。

目的を果たした上に敵将まで斃してんだから
「負け」とは言い難い、のでは・・・

露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を
21キロバイト (3,929 語) - 2021年4月24日 (土) 07:16


1 人間七七四年 :2019/09/29(日) 23:17:18.54

韓国の史料 乱中雑録より

賊兵殊死血戰 勢不能支 乃退入觀音浦
(島津軍は必死で戦ってきたため 勢いを支えきれず朝鮮軍は総崩れになり 観音裏まで敗走した)

このように、実は韓国の史料(乱中雑録)にもはっきり結果が書かれている事を授業でも教えるべき

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2 人間七七四年 :2019/10/01(火) 00:35:58.54

中韓の勝ちって聞いたことあるけど


4 人間七七四年 :2019/10/01(火) 11:35:30.39

>>2
誰に聞いたの?
その人は信用できるの?


3 人間七七四年 :2019/10/01(火) 00:57:17.94

どっちが戦略目標を達成出来たかと言えば日本
ただ中朝も逃げる相手に食らいついたと自負すれば中朝も自己満で勝ったとも言える


6 人間七七四年 :2019/10/04(金) 01:13:49.02

戦略目標って後で何とでも言える
そもそもそれ以前に「露梁海戦の戦果として小西を逃がせた」と言うロジックが成立しない
それについて史実を紹介して見て見よう

慶長3年 11月15日 退却してこない小西の様子を見るため島津が順天倭城に使者を出す。
慶長3年 11月16日 明朝鮮軍が湾を封鎖していたが明将は島津使者の船を城に通す。
          李舜臣は明軍に抗議するも使者の船は帰路も妨害されることなく帰還。
慶長3年 11月17日 たどり着いた使者から情報を聞き島津・立花・宗などの諸将が順天倭城に出撃。
          李舜臣が日本軍の救援が来ることを予測し明将に露梁での待ち伏せを進言。移動する。
慶長3年 11月18日 湾に敵の船が全くいないことに気付き小西脱出。

仮に17日の日本軍出撃がなくても明朝鮮軍は露梁に移動して待ち伏せているので小西は脱出できる。


7 人間七七四年 :2019/10/04(金) 12:21:36.85

>>6
18日に戦争してなかったら引き返して再封鎖した可能性もある


8 人間七七四年 :2019/10/13(日) 18:21:34.07

漢文の授業で主語の省略されている部分は文脈を見て主語を判断するって習ってるだろ

両軍突発 左右掩撃 矢石交下 柴火亂投 許多倭船 太半延燃
賊兵殊死血戰 勢不能支 乃退入觀音浦 日已明矣 舜臣親自援枹先登追殺
この文の中の『勢不能支 乃退入觀音浦』の主語はなんだと思う?

>>1は誤訳だよ
島津が敗走したのは否定しようがない


15 人間七七四年 :2019/10/27(日) 18:44:01.28

征韓録で書かれているように島津が優勢だったことを記載している史料は
>>1の引用元である朝鮮の義兵が書いた<乱中雑録>しかほぼない

島津が征韓録を書くために集めた重臣の証言はむしろ悲惨な敗走しか書かれていないし
宇都宮高麗帰陣にも島津の攻撃が不調に終わったことが書かれている

もし>>1が誤読であれば日本が有利だったとする信頼できる史料はないってことだよ
「史料なんかどうでもいい、主観で考える。」というのなら勝手にどうぞ


19 人間七七四年 :2019/11/10(日) 18:28:02.41

征韓録は島津義弘の孫である島津光久の元で先祖を喧伝するために編集されたものだが
島津光久も編集した家老の島津久通も文禄慶長の役当時生まれてすらいない
そのため各国から資料を集めるとともに当時戦争に参加した老臣に覚書を提出させた

島津の朝鮮役を語りたいなら「見たことない」ではなく知っておくべきものだよ
泗川新寨戦捷之偉蹟と検索して全文読んだ方がこのスレにいるよりためになる
まあ首を突っ込んじゃったから少し内容に触れよう

「敵は大船に大勢にて相働申候間日本方被成御打負御船散散に罷成候彼山に當て数多如枯木相見へ候は皆敵船の帆柱にて候
(中略)維新様の御召船を奉見へば誠に御難儀(中略)御船の垣悉く相崩し申方々へ敵の矢相立被成候」
日本方は責められ散り散りに逃げ、戦場は数多の敵に征された
義弘の座乗船は船の囲いはボロボロで方々に敵の矢が刺さっていた

これ悲惨な敗走の表現だと思いません?
>>1は誤読をやらかしてるが敵側が自らにとって不利な表現をしているから真実と言う論法については同意できる
同様に薩摩藩士がお殿様に献上する覚書に真実でもないのに不利な状況を書くかな


21 人間七七四年 :2019/11/10(日) 20:19:42.47

>>19
その本については知らなかったがそれって単に老臣の記憶違いじゃないのか
そもそも結果として島津側は重要な家臣が誰も戦死してないが明朝鮮は死者多数
日本側が負けたとするとこの事実について説明つかないんだよ
記録と違うって駄々捏ねられても実際はそうなんだから


22 人間七七四年 :2019/11/13(水) 18:52:06.60

>>21
知らなかったら史料を読み漁るんだ!
知識がないと「老臣の記憶違い」と言う感想も出るだろうが
複数史料に同様のことが書いてあるのを知れば感想も変わってくる

>日本側が負けたとするとこの事実について説明つかないんだよ
むしろ日本が勝ったとする方が説明がつかない

宇都宮高麗帰陣物語に船から敵船への移譲攻撃を行うも敵が多勢のため
他の敵船から攻撃を受けて撃退されてしまうと言う話がある
また川上久国の覚書にも敵船に乗りて返らず御家の衆も少々敵船に乗りて返らずと書かれている
これらの事から敵が大船大勢であったため島津軍による船への移乗攻撃が不調に終わったと考えられる

同時代またはこれ以降の時代においても欧州では多くの海戦が行われているが
敵船を沈黙させる有効な攻撃手段は敵船への直接移譲攻撃や敵船を燃やしてしまうことだ
まだ大砲は船を沈没させたり敵を制圧するには弱く、小銃は日本の火縄銃より射程距離の長いものが出てくるが指揮官などの狙撃に使われる程度である

こういった常識があるにもかかわらず島津の勝利を証明するには
「この規模の戦いでも火縄銃だけで敵船の制圧ができたんだ」と言う事を立証しなければならない
だが、出てくる書物は上記のとおり制圧失敗のものばかりなのだが


24 人間七七四年 :2019/11/14(木) 20:39:37.71

>>22
史料読みこんでる時間なんかないってのw
まあいずれは読もうと思ってるよ
ところで日本側の重臣がほとんど死んでない理由が説明できていないようだがな


33 人間七七四年 :2019/11/30(土) 16:21:37.40

>>19
「御船の垣悉く相崩し申方々へ敵の矢相立被成候」これの何が悲惨な敗走の表現なのかがわからん
ただ単に義弘自身の乗船も戦闘に参加して奮戦したってだけかと
当時の大砲はもちろん火縄銃や弓矢では船は沈まない以上、危機的状況ではないよね
当の義弘は健在だったのでことさら船の破損を強調して奮戦しましたって主張してるだけでしょ
まあ、陸戦でいうと矢石が飛んできて鎧に当たりました、鎧はボロボロですって程度。これだけだと矢傷浅とか書かれるレベルであまり戦功としてはカウントしてもらえないよね
とりあえず書いとくか程度でしょ
これが悲惨だなんだと言うなら手負い注文とか手柄として報告できなくなるかと


11 人間七七四年 :2019/10/22(火) 18:07:08.04

無事に撤収出来たから
日本の勝ちだよ

朝鮮側は勝手に追い討ちして
自滅しただけ


12 人間七七四年 :2019/10/22(火) 22:03:08.33

小西行長が無事に脱出成功したから
日本の勝ち
小西行長が捕まるか玉砕したら
明軍の勝ちだった。
小西行長が無事に日本に帰って来たので
日本の勝ち


23 人間七七四年 :2019/11/14(木) 11:51:39.68

戦略目的の達成率で勝敗が決まるんじゃないの?


25 人間七七四年 :2019/11/17(日) 22:32:55.32

>日本側の重臣がほとんど死んでない理由
理由は絶体絶命の時に他家が命を救ってくれたから

いわゆる戦国時代は個人によって食糧・装備・丸薬を携帯するだけでなく小荷駄隊と
呼ばれる輜重を賄う後方支援部隊がおり前線の戦闘部隊と分けられていたと考えられている

基本的に先に戦死するのは戦闘部隊であり、戦闘部隊が壊滅すると後方が逃げ出し
追撃される途中に大物の首が獲られる事が多い

例えば長篠の戦で馬防柵を超えて突っ込んだ戦闘部隊の土屋や真田、また一番隊の大将
である山縣は柵近くで討ち死にしているが、馬場・内藤・原などのほとんどの大物は
いったん撤退し追撃される途中に討ち死にしている

では露梁海戦にこれを当てはめよう。
衝突により日本方の戦闘部隊は壊滅
町田・桂など島津血族で生きていれば家老となった戦闘部隊の将と思われる若い有力家臣達が戦死
戦国時代に重く用いられて琉球攻めでは総大将となった樺山家の宗家忠征と島津家老の久高
のちに島津を名乗り徳川と交渉する喜入忠続など戦闘部隊の大将格と見られる大物は船を明朝鮮軍に燃やされ島に逃亡する
島に逃亡した者たちは本来なら討ち取られていた

露梁海峡を抜けようとした島津義弘たちも前述のとおり追っ手に厳しい攻撃を受ける
これも本来ならば重臣が多く討ち取られ義弘自身も危なかったであろう

ところがここで征韓録に書かれていないことが起こる
蜂須賀家の援軍が島津・立花・宗を救援するため参戦した
立花宗茂から「拙者家中之舟御方以手柄壱艘たすけられ候一段見事之仕立無比類儀候」と称えられ
主君からも「今度朝鮮為使相越島津殿立花殿船合戦之剋行合無比類働深重聞届候」と褒美を賜っている
追撃を押しとどめた蜂須賀阿波水軍がいなければもっとわかりやすい戦争になっていたろう

この蜂須賀家の水軍は島津達が順天へと出陣した時には加わっておらず昌原にて収容輸送を行っていた。
従って参戦したのはまさに追撃を受けていた時の事だと思われる
これは徳島県立図書館に行けば詳しいだろう


27 人間七七四年 :2019/11/19(火) 18:30:30.46

>>25
明と朝鮮の将官に戦死者が多い理由は?
それだけ史料見てるなら日本に有利な解釈したほうが皆喜ぶと思うけどね


28 人間七七四年 :2019/11/25(月) 22:51:29.47

>>27
>日本に有利な解釈したほうが皆喜ぶ
立花の手紙と阿波水軍への手紙以外どの史料を見ても蜂須賀の活躍が載っていないし
具体的に表記された活躍が立花家の船が「壱艘たすけられ」たことしかない
これで日本大勝利とか言い出す方が変な人じゃね?
敗走する島津立花を守りながら撤退戦を上手くやったと言うくらいしか材料がない

もちろん最初から日本有利に解釈したいという思想を持った人への説明は別だが
同様なタイプの人に中国人で碧蹄館の戦いは明の勝利って言う人いるけどね…
史料との矛盾の少ないほうがいいでしょ?

>明と朝鮮の将官に戦死者が多い理由は?
明の戦死者は鄧子龍くらい
明史によると先鋒の朝鮮軍の監督として布陣していたのに誰よりも先に突撃をして戦死した
元々李舜臣も前に出るタイプだがこの件でより前線に出て戦ってたんだろう

朝鮮軍が三増峠の浅利の部隊のように退却したり崩壊したのなら日本の有利を主張するが
同乗の指揮を受け継いだ李莞がさらに奮戦し戦い続けた史料を残している
また銃撃の手柄でも名乗りを上げるのものだがそういう史料が見つからない(多分戦死)

島津立花はこの戦で負けたと判断したほうが整合性がある


29 人間七七四年 :2019/11/26(火) 18:01:37.78

>>28
それじゃ合戦中にいてもいなくても特に変わりない程度の人物だったってことか


30 人間七七四年 :2019/11/27(水) 21:31:38.69

>>29
さあ
どうなのかね
露梁海戦を一つの試合として人物に点数でもつけてみればいいんかじゃないか
そういうところはただの主観でいいと思うよ


26 人間七七四年 :2019/11/18(月) 21:29:31.34

つまり中盤まで優勢だったのに蜂須賀の援軍が来たせいで戦果を拡大する追撃戦ができなかったばかりか気がついたら大将を討ち取られてたといいたいんだな
舜臣以外にまともに水軍を率いれる武将がいない以上朝鮮水軍は壊滅したと同義だな


31 人間七七四年 :2019/11/28(木) 10:27:28.60

あれ?君の主張だと衝突により日本方の戦闘部隊は壊滅して追撃受けてたんじゃなかったのかい
島津義弘も本来なら戦死するような状況で蜂須賀の到来でかろうじて生き延びたんだろw

でも鄧子龍が「先鋒の朝鮮軍の監督として布陣していたのに誰よりも先に突撃をして戦死した」というなら緒戦での戦死だよね
更に李舜臣の戦死の状況って日明朝の記述が珍しく一致しているけど、すべて鄧子龍の救援に赴いて戦死って書かれてるよ。
つまり観音浦から出撃した部隊は開戦とほぼ同時に大将と軍監が戦死し壊滅したわけだ。

これだと二手に分かれたもう一方の船団を率いた総兵の陳璘が突出し危機に陥ったのも納得できる。
壊走する観音浦出撃軍を収容するために全力で日本軍に突進し、船が多く漕ぎ手も多い旗艦だけが結果的に一時期日本軍の中に突出し孤立、その後追いついた陳璘の部下の明軍と日本軍が交戦したわけだ。
この交戦は船団が銃撃砲撃を繰り返したあと移乗攻撃に移るような整然としたものではなく、到着したものから順に戦闘に突入する混戦だったため双方の多数の戦死者、特に船大将クラスの中堅指揮官の戦死が多くでたのであろうことは想像に難くない。
明側にすれば日本軍の大半を取り逃がしたにもかかわらず陳璘の戦功が極めて高く評価されているのもこれなら納得できるだろ。
なにしろ緒戦で破綻した作戦を立て直し大半を取り逃がしたとはいえ一矢報いてみせたんだからね。


35 人間七七四年 :2019/12/06(金) 23:10:09.15

たいへん興味深く読ませてもらったが、ここまで明朝鮮が勝ったと思わせる記述なし。
島津が苦戦したのかもと思い始めてはいるが、かといって明朝鮮が勝ったわけではないようだ。


36 人間七七四年 :2019/12/07(土) 17:22:50.93

>同乗の指揮を受け継いだ李莞がさらに奮戦し戦い続けた史料を残している

李莞が壊滅する観音浦出撃軍の中で最後の意地を見せたことは認めるが、それが戦局になにか影響を与えたかというとそれは殆どないよね。李舜臣戦死の後、軍をまとめることができずに単艦で砲撃を続けたというだけだろう。
李舜臣と李莞の乗船は朝鮮水軍の旗艦なので船は大きく装備は優良だったからできた芸当だろうだけどそれ以上のものじゃない。李舜臣と鄧子龍を失った朝鮮水軍は組織的な戦闘が不可能になり少数の踏みとどまって戦うもの以外の大部分は遁走もしくは拿捕されるか、沈没した。
そうじゃないと樺山久高たちが露梁を突破後に攻撃をうけ支えきれずに南海島の観音浦に上陸、島を横断して友軍に回収されてることの説明がつかないよね?
本来なら明水軍本隊と連帯して日本軍を挟撃し殲滅するはずの李舜臣軍はこの時点でほぼ消滅していたからこそ朝鮮軍の出撃地点であった観音浦は日本軍にとって安全な逃走経路となり得たと見るのが無難だろう。


39 人間七七四年 :2020/01/14(火) 18:07:09.31

乱中雑録は露梁の事あんま詳しく書いてないんだよね。明朝鮮軍が出撃してから李舜臣が戦死するまでの記述はわずかにこれだけ。
陳璘與李舜臣、率諸船爲左右協。我軍屯于南海觀音浦。天兵屯于昆陽竹島。撤碇待變。
夜半賊船自光洲山濤 泗川南海來路洋名 雲合霧集。直過露梁方向倭橋。
一捧鑼響 炮鼓兼動。兩軍突發。左右掩擊。矢石交下 柴火亂投。
許多倭船太半延爇。賊兵殊死血戰。勢不能支。乃退入觀音浦。
日已明矣。舜臣親自援枹先登追殺。炮賊伏於船尾。向舜臣齊發。舜臣中丸不省人事。

朝鮮軍は観音浦から出撃したのに倭船太半延爇な日本軍がその観音浦に逃げ込むというのもおかしな話だしだいぶ都合の悪い話を削っているイメージ。
明軍の副総兵の鄧子龍のことすら書いてないし掩擊したはずなのに挟み撃ちしたもう一方の明本隊のことも全く触れてないし。




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