ひろいあつめ@歴史まとめ

「ひろいあつめ」が「拾い集め」から「広い、厚め」になるよう
そんな歴史まとめサイトをめざしてます。(^_^;)

    日本史

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    (出典 blogimg.goo.ne.jp)

    ご幼少期や明治初期はそうだったかも知れません(笑)
    それからは東京にてお暮らしなので、じょじょにそれなりになっていったかと…

    重臣たちとお話しの機会が増えるにしたがって、
    薩摩弁や長州弁も混じっていったかも知れんけどねw


    1 日本@名無史さん :2019/12/18(水) 09:48:13 .net

    関西弁を否定するネトウヨは非国民やね

    【明治大帝は関西弁だった!!】の続きを読む

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    (出典 pds.exblog.jp)

    現在の宮崎市域があまり開けてなかったってのは意外…

    宮崎市(みやざきし)は、宮崎県南東部にある都市で同県の県庁所在地である。 フェニックス・シーガイア・リゾート、青島、プロ野球・プロサッカーキャンプといった数多くの観光資源を持つ観光都市であり、九州・沖縄地方では長崎市に次いで7番目に人口が多い。1998年(平成10年)から中核に指定されている。
    105キロバイト (13,713 語) - 2020年1月30日 (木) 19:30


    1 名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/02/13(月) 23:15:11.58 ID:ZdOgyCTa0.net

    俺の案はこう。城下町は石高を重視した。
    お前らの意見をよろしく。

    SS 江戸(東京)
    S 京都 大阪
    ---------- 三大都市の壁 ----------
    A 名古屋 金沢
    ---------- 五大都市の壁 ----------
    B 仙台 駿府(静岡) 和歌山 広島 福岡 長崎 熊本 鹿児島
    C 会津若松 水戸 新潟 津 福井 奈良 岡山 鳥取 萩 徳島 佐賀
    D 函館 盛岡 鶴岡 川越 伊勢山田 彦根 松江 高知 久留米 首里(那覇)
    E 米沢 酒田 日光 小田原 浦賀 高田(上越) 松本 大和郡山 堺 姫路 高松 松山 小倉(北九州)
    F 弘前 秋田 山形 石巻 福島 高崎 前橋 宇都宮 長野 甲府 浜松 岡崎 岐阜 富山 山口 佐世保 大分 延岡

    原野・寒村 札幌 青森 八戸 郡山 大宮・浦和(さいたま) 横浜 千葉 神戸 宮崎

    【江戸時代の主要都市の都会度を格付けしようぜ】の続きを読む

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    (出典 yukawanet.com)

    慶応4年、江戸開城の折に、新政府が城内を査収した際、
    御金蔵がスッカラカンだったことに端を発しているらしい。

    すでに徳川幕府が経済破綻してたってのが定説なんだけど、
    当然「どこに持ち去った!?」と追及の声が上がったことだろうとは思う。

    持ち去ったとしたら、品川を脱走した旧幕府艦隊がアヤシイ…

    五稜郭や函館周辺の地中を探索すればもしかしたらww


    1 風吹けば名無し :2020/01/20(月) 17:11:33 ID:Ac49hOqA0.net

    どっちなんだ

    【【疑問】徳川埋蔵金は有るのか無いのか】の続きを読む

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    (出典 tezukanobu-log.com)

    身長かぁ

    呂布とか関羽とか…
    三国志の武将に多そう。

    日本ではほとんどが候補から外れるねぇ…
    鎮西八郎 源為朝公ぐらいかw

    源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放さ
    23キロバイト (4,087 語) - 2019年12月17日 (火) 22:40


    1 無名武将@お腹せっぷく :2016/09/13(火) 23:12:46.41 .net

    身長180センチ体重100キロ以上

    【豪傑と呼ばれるのに必須な武将の条件】の続きを読む

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    (出典 www.news-postseven.com)

    ねこちゃん受難… (;´Д`)


    1 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2019/09/22(日) 15:48:43.06 ID:2l84sz5OM.net BE:399259198-2BP(1000)


    「猫好きの人にはかなり残酷な話になりますが、戦国大名のひとり、織田信長は“ペット”の鷹に、エサとして猫を与えていたとされています」

    そんな衝撃的な話を教えてくれたのは、歴史作家の桐野作人さんだ。戦国時代、戦国武将の間では鷹を使ってウサギやウズラなどの鳥類を捕まえる“鷹狩り”が流行した。
    なかでも、織田信長は相当ハマっていたようで、暇さえあれば鷹狩りに出かけていたという。

    「信長の鷹好きは有名で、信長との仲を深めたい大名たちは、外交手段のひとつとして、鷹や鷹のヒナを献上していました。
    『信長公記』(巻十三)によると、相模(現在の神奈川県)の戦国大名・北条氏政からは一度に13羽もの鷹が贈られたとの記述もあります
    。そのため、信長が暮らす安土城には常時、20~30羽の鷹がいたといわれています」(桐野さん・以下同)

    そんなにも多くの鷹を飼っていると、問題となるのがエサだ。鷹は生き餌を好むため、目をつけられたのが猫やニワトリなどだったという。

    奈良県・興福寺の僧侶・長実房英俊らによる『多聞院日記』には、当時の様子が次のように記述されている。

    『奈良中の猫・ニワトリを安土から捕獲に来るというので、僧坊中へみんなが隠した。鷹のエサにするためだという』

    安土とは、信長の居城・安土城があった城下町なので、“信長からの命令”で奈良中の猫が捕獲されようとしていたことがわかる。

    なぜ奈良の愛猫家たちが、興福寺に猫を隠しにきたかというと、当時、興福寺など大きな寺社は、武家など外部からの侵入や介入を拒否できる“聖域”だったからだ。

    「いわゆる“治外法権”の場所である興福寺には、天下の信長も手を出せない。自分たちの猫が連れていかれないように、かくまってもらおうと大勢の人が興福寺に猫を連れていったのでしょう。
    すでにこの頃には、猫はネズミ捕りとしてだけでなく、ペットに近い存在になっていたのかもしれませんね」

    https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-1424712

    【第六天魔王信長さん、猫をいじめていた 興福寺でネコを匿う僧兵も】の続きを読む

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