ひろいあつめ@歴史まとめ

「ひろいあつめ」が「拾い集め」から「広い、厚め」になるよう
そんな歴史まとめサイトをめざしてます。(^_^;)

    ありうる

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    (出典 image.honto.jp)

    なるほど・・・


    2 番組の途中ですがアフィサイトへの\(^o^)/です :2021/04/30(金) 18:41:12.95 ID:3B/MwRO9M.net

    いうほどあかんか?

    【弥生時代の安倍「わーくに!わーくに!」 中国人「倭国(わーくに)…っと(カキカキ」】の続きを読む

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    (出典 ichef.bbci.co.uk)

    大いに有り得る。

    だからってヒトラーも歴史を経るにしたがって、
    批判を免れることは無いだろうがな・・・


    1 名無しさん@おーぷん :21/02/06(土)03:33:24 ID:iRf

    もし勝ってたらスターリンがヒトラーポジションにされてたやろ

    【ヒトラーって負けたから悪にされたんだよな】の続きを読む

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    (出典 dps68n6fg4q1p.cloudfront.net)

    古代エジプトでも
    「最近の若いモンは・・・」
    なんて愚痴が落書きされてたそうだからw

    なんでも時代が経てば、歴史遺産になるのだなぁ


    1 河津掛け(長野県)@\(^o^)/ :2015/03/08(日) 15:20:28.19 ID:ELl/m9XH0.net BE:323057825-PLT(12000) ポイント特典

    3750年前の石板に刻まれていたのは、顧客からのクレームだったことが判明した。

    この石板は、古代メソポタミア時代のもの。Nanniという人物が粘土板に文字を掘って、
    ビジネスパートナーのEa-nasir氏に送った文書ということまでは分かっていたが、どうやら彼のサービスに対するクレームが刻まれていたようだ。

    その内容は「なぜ私なのですか? 私を侮辱しているのですか?」と、提供されたサービスのクオリティに対して不満を訴えるもの。
    これに対しEa-nasir氏から返事があったのか、そして2人がその後も取り引きをしたかなどは不明だが、
    古代にもカスタマーサービスのようなやりとりが存在していたことには驚きである。

    現在で言えば「ここは最悪。ベッドの寝心地は悪いし、スタッフの態度は悪い。おまけにビーチまで遠い。星ひとつ!」...というレビューのようなものだろうか。
    この古代クレーマーの遺物に対し、ネット上では「超おもしろい!」と興味が集まっている。

    この貴重な石板は現在、イギリスの大英博物館に展示されているとのこと。
    もし同博物館を訪れることがあれば、この石板にも注目してみてはいかがだろう。

    古代メソポタミア時代の石板に文字発見!→内容がただのクレームと判明www
    http://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0308/aol_150308_3569867885.html

    【世界最古の「クレーム」が見つかるw】の続きを読む

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    (出典 up.gc-img.net)

    「あんまりカッコつけた苗字にすると近所で冷やかされるからなぁ…」

    そういうヒトいっぱいいたかもw

    平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。 江戸時代まで、日本において公的に苗字
    4キロバイト (549 語) - 2021年1月1日 (金) 09:15


    【明治政府「好きな苗字つけてええで」先祖「…」ワイ「頼むぞ」】の続きを読む

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    (出典 upload.wikimedia.org)

    それは大いに有り得るだろうね。

    わざわざ陣頭指揮を取るより、距離を置いて俯瞰する方が自然


    1 ごまカンパチ ★ :2021/01/04(月) 00:27:57.79

    ※朝日新聞デジタル
    https://news.yahoo.co.jp/articles/1ade4e8214a4e27f466490a44d787af505f62b40
     戦国武将の織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、
    部下に実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
    これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。

    古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた
    「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
    史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
    このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。

    萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
    寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、
    おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
    利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。

    奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
    萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。

    光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに
    「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。

    光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
    「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。

    【【歴史】明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に】の続きを読む

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