宇治・瀬田の会戦で朝廷軍を壊滅させ、十数万の軍兵で京都に乱入した幕府軍。
内裏(皇居)への総攻撃は当然差し控えたのだろうが、
一部の軍勢が暴走しただけでもあっけなく御所炎上、後鳥羽院以下ことごとく…
の可能性はあったと思う。
それほどの大軍の都での行動を制御しえた北条泰時の統率力は驚嘆に値するな…
内裏(皇居)への総攻撃は当然差し控えたのだろうが、
一部の軍勢が暴走しただけでもあっけなく御所炎上、後鳥羽院以下ことごとく…
の可能性はあったと思う。
それほどの大軍の都での行動を制御しえた北条泰時の統率力は驚嘆に値するな…
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏に 39キロバイト (6,544 語) - 2019年6月15日 (土) 04:51 |
1 日本@名無史さん :2015/08/10(月) 11:31:54.96 .net
御家人は、従っただろうし、義時の権威を頼朝を完全に超えたのではないだろうか?