日本史で最も重要な戦ベスト3といえば壬申の乱・承久の乱ともう一つは
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大東亜戦争
なんで徳川が大政奉還して討幕が実現したのに戊辰戦争って起こったんや?
戦起こす必要あったん?
戊辰戦争の最大の激戦地は、やはり会津である。
新政府軍は若松城に砲弾の雨を降らせた。
この時使われた砲弾は1種類ではないはずだが、特に「焼玉」というものが恐るべき威力を発揮した。これに対処するため、若松城では「焼玉押さえ」という役割まで設けられたほどだ。そしてこの焼玉は、ある意味で19世紀の戦争を象徴するかのような兵器でもある。
榴弾の欠点
幕末の日本人は、榴弾の威力に驚愕した。
それまでの大砲の砲弾といえば、ただの鉛の球体である。しかし榴弾は内部に炸薬が詰まっている。これが爆発し、広範囲の敵兵を殺傷する。日本人は榴弾の威力と同時に、信管という装置の存在も知った。砲弾内部の炸薬に点火するための起爆装置である。
しかし、当時の信管はまだ信頼性の面で不十分だった。不発弾が多かったのだ。
また、榴弾には大きな欠点がある。実は分厚い障害物を打ち破ることができないという点だ。
(出典 intojapanwaraku.com)
瞬発式信管の場合、壁にそれを当てても表面を焦がすだけに終わる。接触からコンマ数秒後に作動する遅発式信管というものもあるが、戊辰戦争の時代にそんなものは存在しない。
つまり「壁を打ち破ること」と「人間を殺傷する」ということは、この時代の砲弾では必ずしも同じ意味合いにならないのだ。
「焼玉押さえ」で対抗した会津の女性
分厚い壁を破壊しつつ、内部を爆破または放火するにはどうすればいいか。
昔から多用されたのは、球形砲弾を予め熱するという手段だ。これが「焼玉」である。
(出典 intojapanwaraku.com)
焼玉を使えば壁や建物の柱を破壊でき、なおかつその内部で火災を発生させることができる。真っ赤になるまで熱した砲弾は、そのまま大砲に装填したら発射薬を起爆させてしまう。だから粘土で仕切りを作る。この手段で新政府軍は若松城を砲撃した。
砲兵たちの心理状態は「緊張」の一言に収まらなかっただろう。粘土で仕切るといっても、これは極めて原始的な措置。万が一発射薬に引火したら、死ぬのはこちらだ。かつての砲兵隊では「大砲1門の暴発は1個小隊の損失」と言われていた。暴発が左右の大砲にも引火し、結果的に大誘爆を起こしてしまうという意味だ。
が、焼玉を浴びる会津藩兵はそれ以上に動揺した。威力があった、ということだ。伝統的な日本家屋は木造建てである。城に火をつけてはならないと、会津の女性たちは濡れた布団を持って走った。
焼玉に対抗する手段は、水を被せることだ。これが「焼玉押さえ」と呼ばれていた。だが、これは危険な作業でもある。砲弾が降る中で女性たちは城内を駆け回ったのだ。実際に死者も出ている。新政府軍は焼玉だけでなく、古典的な曵火信管やフランス製デマレー信管の砲弾も飛ばしていたから、城内はまさに地獄のような光景が繰り広げられていたはずだ。
戦争は「総力戦」になった
焼玉を用いた若松城砲撃戦は、日本に「総力戦」の光景をもたらした。
武士と足軽だけが戦場に赴く「戦争」ではなく、銃後の女性や子どもまで砲弾にさらされる「戦争」がそこにはあった。
フランス革命以降、軍は巨大化した。市民を徴兵できるようになったからだ。この革命のスローガン「自由、平等、博愛」とは、突出した陸軍力が背景にあることを忘れてはいけない。そして巨大になった軍は、大規模な破壊と同時に需要と供給を発生させる。が、相手も愚かではない。敵軍の生産拠点を潰す作戦行動に出るはずだ。
こうして戦争は、当事国の全ての人々を巻き込む魔物になっていく。
「焼玉押さえの少女」が「鹿鳴館の華」に
この砲撃戦を指揮したのは、西郷隆盛のいとこの大山巌である。
大山は近代日本初の砲兵指揮官であり、当時有数の「大砲のプロフェッショナル」だった。フランス製の大砲を自ら改設計するほどだったが、その後の大山は会津出身の山川捨松と結婚した。
捨松は若松城で焼玉の消火を行っていた人物である。この不思議な縁は、しかし見事に昇華した。かつて濡れた布団を持って城内を駆け回っていた少女は「鹿鳴館の華・大山捨松」として名を馳せるのだ。
徳川慶喜および勝海舟が薩長との交渉を拒否して江戸城を明け渡すことなく
当初の予定通り幕府側が総力戦の焦土戦術を実行してたら、さしもの新政府軍も西日本まで後退してただろ。
そして日本は西日本の薩長政府と東日本の徳川幕府で東西二分化されてた可能性が高い。