ひろいあつめ@歴史まとめ

「ひろいあつめ」が「拾い集め」から「広い、厚め」になるよう
そんな歴史まとめサイトをめざしてます。(^_^;)

    逸話

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    そう思ってるというエピソードを残してるのは、
    北条氏康だよね。

    汁かけ飯の話 氏政の有名な逸話として二度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政がを一度、かけたが、が少なかったのでもう一度かけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、かけの量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯
    45キロバイト (7,444 語) - 2021年9月7日 (火) 00:35


    1 風吹けば名無し :2021/09/10(金) 15:01:29.86

    上杉謙信

    【「後継者ガチャ外れた…」←思ってそうな戦国武将】の続きを読む

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    この逸話は
    『島津家代々軍記』など島津家の書物にのみ
    記されているということ・・・

    大河ドラマ「葵三代」で
    すっかり有名になりましたなw


    1 風吹けば名無し :2021/07/26(月) 07:15:17.88

    豊久「おいらを疑うちょるのか?」

    元忠「お答え致しかねる」

    豊久「内府殿より一旦事ある時は伏見城を頼むと、公言仰せじゃった!!」

    元忠「聞いておらぬ」

    豊久「敵にまわっても良かとじゃなぁ!?」

    元忠「それもお答え致しかねる!!」

    義弘「これまでじゃ」

    豊久「叔父上ッ」

    義弘「家康はおいらに恥をかかせた!!」

    豊久「元忠ぁ!!島津を見くびっとじゃなかとぉ!!」

    元忠「……………」

    【島津豊久「伏見城の助太刀に参った、開門されい」元忠「笑止千万、その手には乗らぬ」】の続きを読む

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    よくわからんが・・・

    島津はとても強いんだな。
    それだけはひしひしと感じたw

    木崎原の戦い(きざきばるたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数兵力(300人)しか持っていなかった島津側に敗北を喫したことから「九州
    11キロバイト (1,954 語) - 2021年2月14日 (日) 04:27


    1 風吹けば名無し :2021/07/13(火) 22:24:14.31

    70名×3を突撃させる
    頃合いを見て3隊バラバラに引き上げさせる

    どれか1隊に追跡が来たら残りの2隊が後ろから攻撃
    乱戦、そしてまた後退して1隊に追手が来たら残り2隊が背後に周り奇襲

    これは2隊が追われても1隊が後ろから攻撃、全隊が追われたら1隊が足止めに残り全滅するまで戦い、残り2隊が体勢を立て直しまた背後に回る

    これを延々繰り返した模様

    (出典 i.imgur.com)

    【3000の兵を300で真正面から破った島津義弘さんの戦術がこちら】の続きを読む

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    読み進めると興味深いであろうな


    1 風吹けば名無し :2021/07/15(木) 02:39:58.62

    「宛書:東京府宮城へ天皇様アホタレヘ 内容:天皇はきらひですからやめて下さい うちのはりこもんですから天皇になりたいです そんな天皇はやめてしまつたらよいぞ あほたれ天皇へ」

    (「京都府十五歳・不敬投書・満十四歳未満の者なるを以て書類のみ送局し訓戒釈放す」『特高月報』1944)

    【昭和天皇「お、15歳少年から手紙か、どれどれ」】の続きを読む

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    鹿政談なんて美談(?)も生まれる。

    鹿政談(しかせいだん)は古典落語の演目の一つ。元々は講釈種の上方落語の演目で、明治の初期に2代目禽語楼小さんが東京に移植した。 主な演者として、東京の6代目三遊亭圓生や6代目春風亭柳橋、上方の3代目桂米朝などがいる。 現在でも鹿は奈良の名物であるが、かつては鹿
    9キロバイト (1,542 語) - 2021年4月5日 (月) 08:13


    1 名無しさん@おーぷん :21/02/07(日)10:44:59 ID:tKt

    。天文20年(1551年)10月2日には、10歳の女子が本子守町で鹿に石を投げたら当たり、神鹿を殺害したとして、大人と同じように縄でくくられた上で興福寺周囲の塀を馬で一周させられ(大垣回し)した後に斬首処刑され、家族は連座で家屋を破壊され追放された(『興福寺略年代記』[9])[10]。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E9%B9%BF

    【奈良の鹿は神獣であった・・・】の続きを読む

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